明治学院インブリー館
ブックマーク★レトロ系建物
白金に開校した当時の明治学院の敷地には教鞭をとる宣教師の為に住宅が建てられました。
ここに長く住んだW.インブリー博士の名にちなんでインブリー館と呼ばれています。
当時のアメリカ木造住宅の様式を取り入れて1889(明治22)年頃に建築されました。
都内最古の宣教師館で、国内でも最古期の建築物です。
外壁など当時のアメリカ木造住宅のデザイン、シングル・スタイルを周到しています。
日本で言えば鎧張りと言う所でしょうか。
元々建っていた個所は現在、国道1号線の中にあります。
1964(昭和39)年に国道1号線の拡幅工事の為に現在地に曳屋されました。
1995(平成7)年には2年がかりで全面的な保存修理工事が行われ、
インブリー館は創建当初の姿をほぼ取り戻しました。
1998(平成10)年に国の重要文化財に指定され、
2002(平成14)年には東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」の指定を受けました。

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白金に開校した当時の明治学院の敷地には教鞭をとる宣教師の為に住宅が建てられました。
ここに長く住んだW.インブリー博士の名にちなんでインブリー館と呼ばれています。
当時のアメリカ木造住宅の様式を取り入れて1889(明治22)年頃に建築されました。
都内最古の宣教師館で、国内でも最古期の建築物です。
外壁など当時のアメリカ木造住宅のデザイン、シングル・スタイルを周到しています。
日本で言えば鎧張りと言う所でしょうか。
元々建っていた個所は現在、国道1号線の中にあります。
1964(昭和39)年に国道1号線の拡幅工事の為に現在地に曳屋されました。
1995(平成7)年には2年がかりで全面的な保存修理工事が行われ、
インブリー館は創建当初の姿をほぼ取り戻しました。
1998(平成10)年に国の重要文化財に指定され、
2002(平成14)年には東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」の指定を受けました。

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明治学院 礼拝堂
ブックマーク★レトロ系建物
明治学院記念館の隣には明治学院の礼拝堂(チャペル)があります。
どこかで見た事のある様な?と思ったらハリーポッターのホグワーツ城っぽいです。
日本で西洋建築の設計を数多く手懸けたW.M.ヴォーリズ
(帰化後、一柳米来留を名乗る)により1916(大正5)年に建てられました。
この礼拝堂は、ヴォーリズ自身の結婚式にも使われました。
キリスト教主義教育の明治学院には必須の建物ですね。
竣工当時、長方形だった建物を収容人数を増やす為、
1931(昭和6)年に両袖の増築工事が行われました。
これによって建物を上から見ると十字架の形になりました。
1989(平成元)年、「港区指定有形文化財」に指定、
2002(平成14)年に東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」の指定も受けました。

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明治学院記念館の隣には明治学院の礼拝堂(チャペル)があります。
どこかで見た事のある様な?と思ったらハリーポッターのホグワーツ城っぽいです。
日本で西洋建築の設計を数多く手懸けたW.M.ヴォーリズ
(帰化後、一柳米来留を名乗る)により1916(大正5)年に建てられました。
この礼拝堂は、ヴォーリズ自身の結婚式にも使われました。
キリスト教主義教育の明治学院には必須の建物ですね。
竣工当時、長方形だった建物を収容人数を増やす為、
1931(昭和6)年に両袖の増築工事が行われました。
これによって建物を上から見ると十字架の形になりました。
1989(平成元)年、「港区指定有形文化財」に指定、
2002(平成14)年に東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」の指定も受けました。

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明治学院 記念館
ブックマーク★レトロ系建物
国道1号、明治学院前の交差点を通る度に心を洗われる素敵な風景に出会えます。
無機質な東京の景色に中世ヨーロッパさながらの建物。
芝生広場の向こうに見えるのは明治学院の敷地内にある明治学院記念館。
この建物は1890(明治23)年、神学部の校舎と図書館として建てられました。
当時アメリカで流行したネオゴシック様式の総赤煉瓦、フランス瓦葺の2階建てで、
現在は1階に小礼拝堂、2階に明治学院歴史資料館があります。
建築当時は、赤煉瓦造りでしたが、1894年の明治東京地震で
2階部分の外壁を木組みに改修しました。
当時在校していた島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』の中で
「まだペンキの香のする階段を上って行って2階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。
・・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。
そこへも捨吉は好きな書物を借りていって腰掛けた・・・・」とこの建物に付いての記述があります。
2002(平成14)年 東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定。
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国道1号、明治学院前の交差点を通る度に心を洗われる素敵な風景に出会えます。
無機質な東京の景色に中世ヨーロッパさながらの建物。
芝生広場の向こうに見えるのは明治学院の敷地内にある明治学院記念館。
この建物は1890(明治23)年、神学部の校舎と図書館として建てられました。
当時アメリカで流行したネオゴシック様式の総赤煉瓦、フランス瓦葺の2階建てで、
現在は1階に小礼拝堂、2階に明治学院歴史資料館があります。
建築当時は、赤煉瓦造りでしたが、1894年の明治東京地震で
2階部分の外壁を木組みに改修しました。
当時在校していた島崎藤村の小説『桜の実の熟する時』の中で
「まだペンキの香のする階段を上って行って2階の部屋へ出ると、そこに沢山並べた書架がある。
・・・・書架で囲はれた明るい窓のところには小さな机が置いてある。
そこへも捨吉は好きな書物を借りていって腰掛けた・・・・」とこの建物に付いての記述があります。
2002(平成14)年 東京都「特に景観上重要な歴史的建造物等」に指定。
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戦闘民族スパルタ
スパルタ「Σπάρτα」は紀元前5世紀頃のギリシャの都市国家です。
当時のギリシア世界の常識ではスパルタ陸軍はギリシャ最強(人類最強?)だったので
スパルタに侵入する事は自殺行為に等しく、城壁は作る必要が無かったと言います。
スパルタは他のギリシアの地域とは全く違う社会制度を有していました。
土地の均等配分、常備軍の設置、装飾品の禁止、共同食事制がその特徴です。
他の部族の土地を征服すると農業等は被抑圧民に任せ、市民は軍事行動に専念しました。
(人口1万人で約15万人を支配していたそうです)
他のギリシャ都市国家の兵士は農民や職人だったり他に職業を持ってましたが、
スパルタ人は生まれながらに兵士でした。
■スパルタ教育
女性にも体育が奨励され健康な子を持つことが期待されました。
新生児は部族長老の面接で病弱虚弱者と判断されると山奥の洞穴に遺棄されました。
男子は7歳で家庭を離れ共同生活を送ります。
12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ人としての集団教育を受けました。
スパルタ教育と言われる人材育成は質実剛健、忍耐と服従を身につけ18歳で成人しました。
軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日の夕食会に参加する事が義務でした。
妻帯者であっても夜には兵舎での生活に戻る必要がありました。
兵役が免除されるのは60歳以降だそうです。
■テルモピュライの戦い
紀元前480年、破竹の勢いでヨーロッパへ侵攻を進めるペルシア帝国の大軍に対し、
ギリシア諸都市連合軍は海岸線のテルモピュライでペルシア軍を食い止める作戦を立てました。
ギリシャ世界では恐れられたスパルタ軍がこの戦場では主力となりました。
しかし地元民の内通者がペルシア軍に迂回路を教えた為、
背後を突かれて窮地に陥ってしまいます。
そこでスパルタ王レオニダス1世は他の諸都市の兵士4000人を先に逃がした後、
レオニダス自ら300人のスパルタ重装歩兵と700人のテスピアイ兵、
400人のテバイ兵を率いて囮となり (テバイ兵はペルシア側に投降)
21万のペルシア軍を3日間に渡って食い止めました。
スパルタ軍は死体を高く積み上げ防壁を作り、ペルシャ兵に死体を落とします。
ペルシア兵はスパルタとの肉弾戦に恐怖し、
最終的に遠距離からの矢の雨によってスパルタ軍&テスピアイ軍は全滅しました。
・ギリシア連合軍の戦力 5,000 損害 1,000以上
・ペルシャ軍の戦力 210,000 損害20,000以上
ギリシャ側は先に4000人を温存させたので実質約1000人でペルシャ軍2万人を倒した事になります。
この時間稼ぎが、アテナイ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、
テルモピュライの戦いと並行して行われたサラミス沖の海戦でギリシャ側が勝利しました。
スパルタ王レオニダスとスパルタ軍の勇敢な戦いぶりは全ギリシア人から称賛を受け、
テルモピュライには英雄レオニダスとスパルタ兵の記念碑が建てられ観光名所となっています。
※映画「300」ではスパルタを追われた者がペルシャ側に寝返って迂回路を教えました。
水天宮 2017
ブックマーク★レトロ系建物
元々久留米にあった水天宮を久留米藩の有馬家が参勤交代の折に
江戸でもお参りできるように国元久留米より御分霊したのが始まりです。
安産、子授の御利益で有名ですね。
2012年11月18日(日)水天宮【日本橋】の記事で1度紹介しています。
その時は最も混む日だったらしく、歩道は行列で埋まり、
車道にバリケードを並べて歩行者を歩かせていました。
とてもじゃないけど撮影どころじゃありませんでした。
日本橋に用があり、2度目に来た時は工事中でした。
最初に行ってからもう何年も経ってますが
水天宮をちゃんと撮影していないのを思い出してまた行ってみました。
リニューアルと言うよりほとんど新築の水天宮。
1階は鉄筋コンクリート造の建物、その上の屋上に本殿と境内があります。
※関連記事
■【日本橋】
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元々久留米にあった水天宮を久留米藩の有馬家が参勤交代の折に
江戸でもお参りできるように国元久留米より御分霊したのが始まりです。
安産、子授の御利益で有名ですね。
2012年11月18日(日)水天宮【日本橋】の記事で1度紹介しています。
その時は最も混む日だったらしく、歩道は行列で埋まり、
車道にバリケードを並べて歩行者を歩かせていました。
とてもじゃないけど撮影どころじゃありませんでした。
日本橋に用があり、2度目に来た時は工事中でした。
最初に行ってからもう何年も経ってますが
水天宮をちゃんと撮影していないのを思い出してまた行ってみました。
リニューアルと言うよりほとんど新築の水天宮。
1階は鉄筋コンクリート造の建物、その上の屋上に本殿と境内があります。
※関連記事
■【日本橋】
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