⚔関ヶ原の戦い | 雨 風 呂

⚔関ヶ原の戦い





戦国時代を終焉させ、265年続いた江戸時代が始まるきっかけとなった、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
ブログでも断片的に、重複する説明もあったので今回統一して記事としてまとめてみました。
関ヶ原の戦いは日本を2つの勢力に分けた、日本最大の合戦でした。
豊臣秀吉の死後、後継ぎである「豊臣秀頼」がまだ6歳であった事から
五大老と五奉行が政治を取り仕切っていました。
■五大老
徳川家康 関東   
前田利家 北陸・加賀
宇喜多秀家 備前
上杉景勝 会津
毛利輝元 中国

■五奉行
石田三成 佐和山
増田長盛 大和郡山
長束正家 近江水口
浅野長政 甲府
前田玄以 丹波亀山
 
関ヶ原の戦いは「石田三成軍=西軍」「徳川家康軍=東軍」という二大陣営で争われました。
石田三成と言う人はもと豊臣秀吉の一番の側近でした。
しかし豊臣秀吉が在命中、彼の告げ口によって被害を受け、嫌う人が多かったそうです。
また徳川家康は規則を守らず独断で行動する事が多く石田三成勢には嫌われていました。
双方とも恨まれたり敵は多かった様です。
しかもお互い暗殺未遂事件もあったりして戦いは必然的だったかも知れません。



見ての通り、関ヶ原という場所は四方を山に囲まれたくぼ地で
その中に入った東軍を、山の上に布陣した西軍が完全に包囲している形です。
誰が見ても圧倒的に東軍が不利ですね。
待ち構えていた西軍が東軍を迎え撃つと言う構図です。
そしてキーマンとされる西軍、松尾山に布陣していた小早川秀秋。

朝鮮出兵の時、彼は仲間を救援する為に先陣切って奮闘していたのですが、
石田三成がそれをどの様に秀吉に報告したのか、
豊臣秀吉に「総大将なのに軽率すぎる」と領地を没収されてしまいました。
しかし豊臣秀吉に仲を取り持ってくれたのは徳川家康でした。
小早川秀秋は豊臣秀吉の養子でもありました。
つまり石田三成軍、西軍には義理があります。
しかし徳川家康にも恩がありました。

小早川秀秋は戦が開始されても動かず、
見晴らしの良い松尾山から関ヶ原を見下ろし様子をうかがっていました。
東軍が不利な布陣にも関わらず徳川家康の本営が着々と前進しているのを確認していたのです。
そして小早川秀秋や吉川広家らは、家康率いる東軍が有利と見て寝返るのです。
東軍の勢いは拍車がかかり劣勢になった西軍は総崩れになります。
東軍は敗走する西軍を追撃しますが、
家康からの追撃中止の命令で関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わります。



関ヶ原の合戦(9月)の5カ月前、1600年4月にオランダ船リーフデ号が漂着しました。
天下分け目の関ヶ原の合戦へ向けて家康が戦いの準備をしている時、
まさにそこへ異国の最新兵器を積んだ船が到着したのです。
リーフデ号の主砲カルバリン砲、砲弾や火薬、銃が家康の物になりました。
大型船舶搭載用のカルバリン砲は長身で嵩張りますが
その射程の長さでスペインの無敵艦隊を壊滅させた実績があります。
【カルバリン砲は大阪城攻略にも用いられました】
西軍に比べ総合戦力で劣っていた東軍は緒戦では苦戦していましたが
どの大砲よりも射程の長いカルバリン砲は戦いを有利にした要因と思われます。



徳川家康はオランダ船リーフデ号の乗組員、ヤン・ヨーステンを大変気に入り、
和名、耶楊子(やようす)と名付け、江戸城の隣(現在の東京駅)に住まわせました。
徳川家康にとっては幸運をもたらしたヤン・ヨーステン。
ヤン・ヨーステンにとって徳川家康は命の恩人です。相思相愛ですね。
(ヤン・ヨーステンはオランダに敵対するカトリックイエズス会に死刑を宣告されてました)
その屋敷周辺は八代洲河岸と呼ばれ、後に八重洲と言う町名になりました。
ヤン・ヨーステンは徳川幕府の外交顧問となり日本人女性と結婚しました。

世界史ではその頃ヨーロッパは宗教戦争と植民地争いの真っただ中。
江戸に戻った家康はキリスト教を押し付けるスペインとポルトガルを排除し
オランダに交易を絞り、布教禁止の政策を強化します。
また日本に欧州諸国の争いを持ち込まない様に鎖国を決定します。
幕府は鎖国中でもオランダとだけは貿易を続け、
オランダ商館はヨーロッパに対する唯一の窓口となります。
この時期、海外からの知識は全て「蘭学」と呼ばれました。