リーフデ号と関ヶ原の合戦 | 雨 風 呂

リーフデ号と関ヶ原の合戦

ブックマーク★レトロ系建物2




ヤン・ヨーステン記念像の続きです。
東京駅の西側、丸ビルの敷地内にはオランダ船リーフデ号の彫刻があります。
「本彫刻は昭和55年4月22日、オランダ王国ファン・アフト首相来日の際、
同首相よりオランダ王国政府に代わり、日本国政府に対し寄贈されたものである。
本彫刻のモデルとなった蘭船デ・リーフデ号は、
1600年4月19日豊後臼杵湾北岸佐志生(現在の大分県臼杵市)に漂着したが、
同船の乗組員であったオランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインは、
時の将軍徳川家康に顧問として仕え、
わが国ではその名も八重洲として知られ将軍よりこの地域に住居を与えられていた。」
【碑文より】

日本にやっと辿り着いたリーフデ号ですが、生き残りの船員は牢に監禁されます。
カトリックイエズス会の宣教師たちは「海賊を処刑すべし」と家康に進言したのです。
カトリック系スペイン、ポルトガルは
新教プロテスタント系イングランド、オランダと覇権をめぐり敵対していました。
家康は何度かヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスを引見します。
処刑を求めるイエズス会を無視し家康は熱心にヤン・ヨーステン達の話を聞きます。
また家康はヤン・ヨーステン達にリーフデ号の装備について尋ねました。
「大砲、砲弾、火薬、銃が積載されている」という返答に家康は大変喜びます。
リーフデ号が漂着したのが1600年4月、関ヶ原の合戦は数か月後の9月です。
天下分け目の関ヶ原の合戦へ向けて家康が戦いの準備をしている時、
まさにそこへ異国の最新兵器を積んだ船が到着したのです。

リーフデ号の主砲カルバリン砲、砲弾や火薬、銃が家康の物になりました。
大型船舶搭載用のカルバリン砲は長身で嵩張りますが
その射程の長さでスペインの無敵艦隊を壊滅させた実績があります。
【カルバリン砲は大阪城攻略にも用いられました】
西軍に比べ総合戦力で劣っていた東軍は緒戦では苦戦しますが
どの大砲よりも射程の長いカルバリン砲は戦いを有利にした要因と思われます。
数で優勢な西軍にはあまり忠実ではない大名も居ました。
小早川秀秋や吉川広家らは、家康率いる東軍が有利と見て寝返るのです。
東軍の勢いは拍車がかかり劣勢になった西軍は総崩れになります。
東軍は敗走する西軍を追撃しますが、
家康からの追撃中止の命令で関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わります。

江戸に戻った家康はキリスト教を押し付けるスペインとポルトガルを排除し
オランダとイギリスに交易を絞り、布教禁止の政策を強化します。
また日本に欧州諸国の争いを持ち込まない様に鎖国を決定します。
家康死没(1616年)、イギリスの代理人である三浦按針ことアダムス死没(1620年)。
この二人が亡くなった後、イギリスは日本との交易から撤退します。
幕府は鎖国中でもオランダとだけは貿易を続け、
オランダ商館はヨーロッパに対する唯一の窓口となります。
この時期、海外からの知識は全て「蘭学」と呼ばれました。
再度イギリス人が日本と本格的に交渉するようになったのは幕末になってからでした。


▲青い服がウィリアム・アダムス、赤い服がヤン・ヨーステン。


▲カルバリン砲


▲ハウステンボスのリーフデ号のレプリカ(Wikipedia)

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2015