輪王寺両大師
ブックマーク★レトロ系建物
江戸時代、上野は寛永寺、日光は満願寺。
その両山の山主が輪王寺宮という名前でした。
上野の山、寛永寺一帯は幕末の慶応4年(1868年)
新政府軍と旧幕府軍との上野戦争で焼け野原になりました。
寛永寺の主要な建物は焼失し、壊滅的打撃を受けました。
明治維新後、境内地は没収され、輪王寺の称号は中絶。
寺は廃止状態に追い込まれます。
これを惜しんだ、東叡、日光両山からの要請により、
明治16年(1883)にこの両山に輪王寺という名の寺が再興され、
明治18年(1885)には「輪王寺門跡」の称号が復活しました。
現在の輪王寺では
天海大僧正(慈眼大師)を祀る「開山堂」に
寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、
慈恵・慈眼、二人の大師を祀る事から“両大師”とも呼ばれます。

本堂の東隣に寛永寺輪王殿(斎場)。
その手前に寛永寺旧本坊表門、通称・黒門があります。
(重要文化財)
門扉には上野戦争の際の弾痕があるそうです。
本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作。
参道左右の銅燈籠はもと徳川家光霊廟に奉納されていた物です。
木造天海僧正坐像は東京都指定有形文化財です。
東叡山 輪王寺(別称:開山堂・両大師)
JR 山ノ手線・京浜東北線/上野・鶯谷駅 徒歩5分

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江戸時代、上野は寛永寺、日光は満願寺。
その両山の山主が輪王寺宮という名前でした。
上野の山、寛永寺一帯は幕末の慶応4年(1868年)
新政府軍と旧幕府軍との上野戦争で焼け野原になりました。
寛永寺の主要な建物は焼失し、壊滅的打撃を受けました。
明治維新後、境内地は没収され、輪王寺の称号は中絶。
寺は廃止状態に追い込まれます。
これを惜しんだ、東叡、日光両山からの要請により、
明治16年(1883)にこの両山に輪王寺という名の寺が再興され、
明治18年(1885)には「輪王寺門跡」の称号が復活しました。
現在の輪王寺では
天海大僧正(慈眼大師)を祀る「開山堂」に
寛永寺本坊内にあった慈恵堂から慈恵大師像を移し、
慈恵・慈眼、二人の大師を祀る事から“両大師”とも呼ばれます。

本堂の東隣に寛永寺輪王殿(斎場)。
その手前に寛永寺旧本坊表門、通称・黒門があります。
(重要文化財)
門扉には上野戦争の際の弾痕があるそうです。
本堂前の鐘楼に懸かる梵鐘は慶安4年(1651年)の製作。
参道左右の銅燈籠はもと徳川家光霊廟に奉納されていた物です。
木造天海僧正坐像は東京都指定有形文化財です。
東叡山 輪王寺(別称:開山堂・両大師)
JR 山ノ手線・京浜東北線/上野・鶯谷駅 徒歩5分

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