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合気道の稽古を本格的に稽古してから今年の10月で35年経過。
平成3年(1991年)10月10日に加古川市立武道館が開館。
今は亡き西島正憲氏が設立したのが始まりです。しかし、師範は3回目の脳梗塞で70歳でお亡くなりになりました。
私が入門したのは、開館と同時だった。
職場の紙切り機で、右手の人差し指から小指までの爪をすべてそぎ落としてしまった。
今でも記憶に残っているのは、信楽鉄道の脱線事故があった日。
しばらくの間、見取り稽古が中心だった。
ここで学んだのが、爪は小指から生えるというのか再生すること。
どのくらいで回復したのか、すっかり忘れたけれど。
五本の中で中指だけが少し出ているので少し深く切り込んでいた。
それも、今ではほかの指と同じようにバランスよく目立たなくなって正常です。爪をはがしただけで事なきを得た。
この事は、合気道の稽古を始める際に貴重な体験だった。
自己流に解釈すると呼吸力、一般的かどうか定かでないけど、「氣」は、指先から出るそうだ。
長い年月の間にいろんなことがありました。
1999年の12月25日には「蜂窩織炎」で右足が腫れ緊急入院。
あの、ノストラダムスの大予言と同じ年です。
合氣道の稽古を始めてから、999回目の時。
何事を成すにも心身ともに健康でなければいけない。
「今 ここに活かされ生きている」
体調不良の時もあります。振り返るに2023年の4月ごろから急に気温上昇。一気に気温が上がると意欲減退。
ここで思い出すのが、開祖の「合気道の精神」
合気とは愛なり。
天地の心を以て我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。
合気とは自己に打ち克ち敵をして戦う心無からしむ。否敵そのものを無くする絶対的自己完遂の道なり。
而して武技は天の理法を体に移し 霊肉一体の至上境に至るの業であり、道程である。
植芝
深遠無限なる天地の心とはいったいいかなるものか。宇宙とはという未知なる世界が存在することなのだろう。
宇宙観を抱いて役割演技をする。これが、演武です。
ここは、地球。引力・重力がある。
船漕ぎ運動ともいわれる「天鳥船と降魂」。
禊の業である。
開祖も修行した高御位山。
そのふもとに高御位神宮があり開祖も稽古した。
標高は確か230mだったか。ランニングに熱中していたころタイムを計ってみた。
確か25分くらいで頂上に到着。
今は無理して上ることもない。
何年も登っていないので登ってみようという気にもならない、というのが正直なところだが。
振り返るに「加古川合気会」の恒例行事として正月に有志の7,8名で登山をした記憶がよみがえる。
今から27,8年前のことである。
「光陰矢の如し」あっという間に月日が過ぎ去り
今ここに
合気道だけでなく「なぎなた」もそうだが、心理的に大きな存在になっている。
寒い寒い、畳が冷えてよく滑る。
冬にする運動じゃないと思いながらも、稽古するのが当たり前になった。
稽古することが一つの義務のような感じ。
稽古は」同じことの繰り返しです。「創造性がないなあ」こんなことを時々感じることあります。
「継続は力なり」と言われます。
何の力になるのでしょうか。
私が思うに根気力・持久力・忍耐力と言われる明確に見えない抽象的なものが培われるのでしょう。
マラソンランナーが最後まで走り切るのに似ているようです。
もちろんこのことは、私自身がフルマラソンを30数回走って感じたことです。
健康づくり体力維持のために運動するなら、合気道にこだわらない。
佐々木将人師範には、2003年船漕ぎ運動の手は水泳の水かきのごとくすること。「手はこうだ」といって指導してもらいました。
水をかくごときです。
体力維持増進ならば、走ることよりも筋力トレーニングが身体のために良いといわれています。
度々書いてきて、同じことの繰り返しになります。
それは、2020年12月に中国で発生した新型コロナウイルス。
その影響により火、金曜日の稽古をする意欲がなくなりました。
喜ぶべきかどうか分かりませんが、コロナがきっかけになったのは確実です。
4日の日が今年の初稽古でした。12月27日から、約1週間ぶりの稽古でした。
合気道は寒い寒い冬にする運動ではないと思いながらもコロナが発生するまでは、週4日間の30年間ほど稽古したものだとつくづく感じます。
今では、週2日の稽古が当然になった。
まあ、そんなことで新春から体調を崩した。
休む時には思いきって休む。
これが長続きする秘訣かもしれません。
近くに稽古場所があるという事がとても大きいと感じます。
「地球の恵み」でも、ブログしたように道場までの距離は150mほどです。
体調不良の時、道場へ行って稽古風景を見せてもらいました。
(家に帰ってから稽古風景を撮影すべきだと思いました。)
10分ほど見た感想です。
やはり稽古の量です。
動くときの体裁きは
・姿勢
・自分の中心はどこにあるか
・相手との間合い
・手と足が同時に動く
・呼吸の一致
自分はいったい何をしようとしているのか。こういった気持ち感情さえもない無の境地に達すること。
「光陰矢の如し」
思い起こせば、一瞬のうちに時間が過ぎ去る。
道場だけの稽古だけでなく、日ごろからの心がけが「大宇宙」と結びつく。
合気とは愛なり。
天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することを武の道でならねばならぬ。
日進月歩の大宇宙に対する感覚の変遷です。
歩きながら、何かをしながらでも合気道の精神につながる。
人生そのものだという感覚をますます感じる。
合気道を通じて、何を学ぶか。
稽古をする目的は、人それぞれでしょう。
目的など思わずに合気道なるものに出会って関心を抱き、とにかくやってみよう。
こういう偶然ともいえることが、ものごとを始めるきっかけかもしれません。
まあ、いろいろあれど・・・
そこに山があるから山に登る感覚と同じなのでしょう。
そして、稽古をし始めてから数年後、平成7年(1995年)1月17日に「阪神淡路大震災」勃発。
ある大学教授が阪神地方に大震災は起こらない。とラジオで聞いた記憶がある。
その時は、日曜日だった。
その翌日に大地震だ。
加古川市もいまだだってないほどの揺れだった。
本棚の本が数冊落下。
トイレ、ふろのタイルがひび割れ。
屋根瓦がずれて雨漏り。これは雨が降ってからのことだ。
震度5くらいだった
強くなりたい。
最近は刃物を使った殺傷事件が多いので護身術を身につけたい。
危機管理能力を高めたい
一霊三元八力
そういったことなど思わずに、近辺に道場があるから。
運動のひとつとして。
いづれにせよ機会、きっかけという偶然性なるものがあるのだろう。
「合気道の稽古をしよう」そう思って実行するには、心にゆとりがなければならない。
いや、行動力か。
それともチャレンジ精神か。
とにかく、その気になることです。
例えば、自動車が故障して修理工場等に手配すること等。
(稽古どころではない。熱中できない。)
腰が痛い、首が痛い。ちょっと調子が悪い。こんな時は思いきって休むのが良い。
稽古をしたくても稽古場所がない、稽古相手がいない。稽古場所はあっても道場が休みの時もある。
こちらがヤル気があれど、うまくタイミングが合わずチャンスを逃す場合が多々にある。
これこそが物事を成すのに何よりも重要なのでしょう。
合気道の稽古は、受けと とりが交互に役割を分担して行う武道です。
いろんな稽古方法がありますが、合気道の稽古を通して人間関係を学ぶなら相手が必要ということになります。
他者を想定して一人稽古もできますけれども・・・
投げられた時に自分の身体を守る受け身の動作ができなければけがをするので、思う通りの稽古をすることができない。
投げられたときに衝撃を吸収することができる技術のみならず、丈夫な身体が備わっていることが必要だとつくづく感じます。
合気道の稽古は、受けととりの役割分担といってもいいでしょう。
試合がない、勝敗がないことを信条としています。
相撲の取り組みと同じように立ち合いの呼吸が合わなければ、行司にやり直しを命じられます。
その点では「気 度 間」といった概念がなければいけません。
合氣道家には、整体師が多い。
稽古時間が決まっている時にはできる限り稽古開始時間に間に合わせること。
用事を済ませ稽古時間の中途から参加すると稽古の流れがあるので、「お邪魔虫になる心境」。
こう感じたら稽古は面白くない。
私は何しに来たんだろう。もっともいけない感情が沸き起こりがち。
何事も集中力です。
私はそう思って稽古してます。
合気道の稽古を通じて相手とのコミニュケーション を図るなり。
相手の思いに逆らわず相手の動きに合わせて動くことを心掛ける。
攻撃する側(受け)と技をかける側(取り)がそれぞれの役割をする。
その気になって動くこと。姿勢を正し受け(攻撃)ととり(仕手)の役割をしっかりすること。合気道には試合はない。
合気道は試合がない。試合がないということは勝ち負けがない。
勝った負けたというような心理的な意識の学習が気になるならば、それを克服するための哲学的な、あるいは宗教的ともいえる、こころというか精神面を感知するための学習、錬磨である。一つの表現活動を表層化するための役割演技。
それは武道としての演武である。
役割をしっかり把握して稽古に励みたい。
受けは、一般的にガチンコ体性で攻撃する。
攻撃、攻める気がなく崩れない体制で攻めても技がかからない。
武道の神髄を学ぶ。武士社会、歴史を学ぶ。
人間とは何か
スマホで調べてみました。便利ですね。あっという間に文章が出てきました。この便利さが、人間の思考力、調査力等を衰退させるそうです。
生きるとは何か
これも上記と同じ。
何かに迷っているのでしょうか。という文面が出てきました
こちらの方は、心理学、哲学的な側面よりも宗教的な色合いが強く出ています。
自分で調べなさいといった感じを受けました。
仕手である取りは柔らかく動く。
相手を投げよう倒そうという気持ちさえも起こらない。
柔らかく円運動.回転運動,螺旋の動きをする。そして、相手と一体化し気を合わせる。
距離を保ちながらリズム、タイミング等をとりながら無心になって明るく楽しく動く。
これが対立しない和合の道へと繋がり平和な世の中を形成する働きとなる。
とはいえ、武道である。
肉体を使い相手と対峙する。
体力的に頑強でなければならない。これは、他者との比較ではない。
自分自身で元気だ、頑強だと認識すること。
身体が思い通りに動くことによって、事を為すことができる。これは、心の働き即ち心理的な感受性が大きく作用する。
自分の姿勢は自分で矯正する。
ゆがんだ身心を美しくする努力。
自己意識これも心の働き。
相手を見ずして、全体の雰囲気等を感知しながら動く。
何もしないことをする。
形、型があるが、こだわりすぎて自由性、自分の動きを見失わず明るく楽しく稽古する。
個人の神聖を尊重する。
すごいですね。画像撮影する人がいるんですね。記録されているから後世の我々は学ぶことができる。
合気道の稽古を通じて創造性を発見しましょう。
私のスーパーバイザーの今は亡き恩師の先生が仰ってました。
「何もしないことをする」。このことは、年を重ねるごとに益々感じることです。
合気道でいえば、「投げよう、倒そう」という気持ちさえも抱いてはいけない、ということです。勝ち負けを超越したこころ、広い広い心、何事にもこだわらない心。
こころの働きが自分の身体活動に影響を及ぼし、相手との関係をもうまく調和しなくなるのです。
合気道の精神
合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。
合気とは自己に打ち克ち敵をして戦う心無からしむ、.
否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり。
而して武技は天の理法を体に移し霊肉一体の至上境に至るの業であり、道程である。
大東流では、合気上げ 。合気会では、呼吸力と理解しています。
相対稽古は相手との関係性が大切だが、単独での稽古は自己との対話ともいえよう。
霊主体従
一霊四魂三元八力
大宇宙と一体化するため、ひとつの錬磨するための武道、合気道。
合気道、それは大ききとらえると健康保持、あるいは体力増進のひとつの運動です。
ですから、自分自身が納得できる動き楽しくなければ長続きしない。これはすべての運動に当てはまるものです。
その動きは、また醜いものでなく暖かく生活を和ませるものでなければばならない。
生存するのになくてはならないもの、その一つが呼吸力と言われるもの
呼吸法です。
すべてに通用する呼吸法です。
呼吸とともに動く。
2月28日(土)以来の稽古を4月5日(日)にした。
その気にならなければ、何事もなすことはできない。ごく当たり前、当然のことをこの一か月少しで体験した。
そして、合気道の稽古をするという武道のひとつとしての「運動」をすること自体に大きな精神的な働きがあるのだという事。
「天地の心を以て我が心とし・・・・」 「自己の使命を完遂すること・・・」
合気道の精神を日常生活に、具現化する・・・
日々心新たにして、生活していきたい。そのためには、万全なる体調の維持がなければならない。
健全なる精神に健全なる肉体が宿るというけれど、身心ともに健康でなければ、やる気、意欲は当然ながら湧き出ないものである。
この事は、体調を崩す、けがをして体が思うように動かせない等の体験をしてわかることです。
年を積み重ねるということは、理屈ではどうしようもないことが多くありますけれども…
天地の動きとともに、「あるがままに」生きる。
合気は愛なり。
合気道の精神を生かし国際平和、万有愛護の精神を以って武の道を究め、芸術との一体化を目指したい。
相撲は、四股・すり足・てっぽう
合気道は、入り身・転換が基本とされる。
力はないよりあったほうがいい。
緊張と弛緩
ぶつからない稽古
握らない。撫でるように柔らかく動く。
