芸術と武道を実践する 西田管男のブログ

 芸術と武道を実践する 西田管男のブログ

地球は生きている。その地球に生まれ、生かされ生きる。

合気道を中心に武道と芸術で感覚を錬磨し、自己の気持ち等をあるがままに表現することを目指して活動します。

地球温暖化による大災害の頻発による環境の変化。

防災意識、危機管理能力を高めるためにどう生きていくか。

明るく楽しく生き生きと生活できるよう「あるがままに」

世界平和の発展に少しでも貢献できるよう行動します。

 

稽古をしようと思うから稽古する。

その気がなければ稽古しない。

これはすべての行為の原点です。

 

その気にならねば、何も起こらない。

 

稽古をするときは熱中する。集中力で本気になる。

気合を入れて稽古に励む。

その気になって動く。

 

相手を動かすよりも自分から動く。

 

相手を動かそうと思うことなく何を感じてているのかを感じとる。

 

合気道の技は先手必勝じゃなうように見える。もちろん合気道に勝敗はない。

合気道の稽古を通じて、コミュニケーション能力を高める。

 

相対した稽古相手は何を感じているのか。どんな気持ちで稽古しているのか。

 

感じ取る感覚、感受性ともいえる心の働き。

 

 

 

 

 

開祖の画像から学ぶ。

貴重な映像です。

 

現在ではスマホさえあれば動画が撮影できるが、このころは1930年ごろからの画像でしょう。こうして、開祖の画像を見ることができることに感謝します。

 

 

高齢化に伴い足腰等を痛めて稽古に励んでいる方々が多くなってきました。

 

そういう私も合気道の稽古を始めた年は42歳と3か月だった。1991年10月10日でした。

 

トライアスロンに熱中していた。

まだまだ、これからだという頃に合気道の稽古を始める。

 

身体を鍛錬する。

 

知人に彫刻家がいる。

 

クスノキの間伐材をゴロゴロ転がしているうちに、腰を痛めてしまう。

 

痛めたその次の日曜日は、篠山ABCマラソン。当然ながら欠場。参加費を無駄にする。走る気力なし。現地まで車を走らせ選手の走る姿を観戦。やはり走ったほうが楽しい。

 

 

痛いのを無理して動くとますます悪化させる。

 

痛めてしまうのはどうしてなのか。

 

一般的に言われる部位をひねっているからでしょうか。

 

 

痛いのはどうしてか。

 

痛いと思うから痛いのか。

 

やりすぎなのか。

 

動きすぎなのか。

 

間違った動きをしているのか。

 

気づいたたならば修正する。

 

自分の身体は自分で管理する。

 

自己を愛することができなければ、他者を愛すること等できない。

 

健康維持・増進のために始めた合氣道。

 

宇宙の動きと一体化した動き。

 

素直に心の声を聴くということ。

 

自分の身体は自分で守る。

 

合気道は相対稽古を主流とする。

 

攻撃側と取り側の役割をする。

 

お互いのの動きが一体化しないと技も通じない。

 

相手を投げよう、うつぶせにしようという気持ちさえもないほうが良い。

 

力ずくで相手を引っ張ったり押してはいけない。

 

相手の動きに合わせすぎてもうまくタイミングよく動くことができない。

 

 

合気道には試合がない。

 

試合がないということは、勝ち負けがない。

 

勝とうという心理がない。

 

勝つということはどんな心理なのか。

 

負けた時の気持ちはどうだろうか。

 

この事だけでも心理学としての研究になりうる。

 

攻撃側(受け)と制圧する側(仕手、取り)ともいうのかな。

 

劇で言うと役割演技といった演武形式だ。

 

 

 

武道の稽古の段階は、剛柔流だといわれる。

 

川の流れの如く動く。

 

流れずに溜まっている川もある。

 

それは川と言わず池と呼ぶ、のかな。

 

止まらない。

 

いつかない。

 

呼吸も止まることなく、吐く息を長くする。

 

それは、呼吸法です。呼吸法の研究だけでも奥が深い。

 

この世に生まれ、生かされ生きている。

 

 

呼吸が止まれば「死」を意味する。

 

いつか呼吸が止まる。

 

 

 

 

すうあおうえい

 

 

言霊

 

吐く息とともに声が出る。

 

言霊武道ともいえる合気道です。

 

 

我即宇宙の概念を会得するべく稽古に励みたい。

 

 

私の愛読書 雑誌「ムー」の8月号に植芝盛平の鎮魂力という

ことで紹介されていた。

引用させてもらうと「私は日々一切の執着を取り除く修業をして、自分の光身を見たりしたこと、即ちある時は大光明火炎を背負った不動明王に、ある時は観世音菩薩などに見えたりしたのでありますが、植芝は植芝自身にきき、そして知ったのであります。この私の中に宇宙があるのであります。すべてがあるのです。]

 

この言葉の意味を知るために稽古をしています。