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合気道の稽古を本格的に稽古してから34年という月日が、「あっという間に」過ぎ去っていきました。
いや、その時にはこんなことなど気にもしなかったのですが、今こうして振り返ってみると本当に瞬間というのか一瞬です。
「光陰矢の如し」その時々の積み重ねです。
道場だけの稽古だけでなく、日ごろからの心がけが「大宇宙」と結びつく。
日進月歩の感覚です。
歩きながら、何かをしながらでも合気道の精神につながる。
人生そのものだという感覚をますます感じます。
合気道を通じて、何を学ぶか。
稽古をする目的は、人それぞれでしょう。
いや、目的など思わずに合気道なるものに出会って関心を抱き、とにかくやってみよう。
こういう偶然ともいえることが、ものごとを始めるきっかけかもしれません。
まあ、いろいろあれど・・・
そこに山があるから山に登る感覚と同じなのでしょう。
強くなりたい。
最近は刃物を使った殺傷事件が多いので護身術を身につけたい。
危機管理能力を高めたい
そういったことなど思わずに、近辺に道場があるから。
運動のひとつとして。
いづれにせよ機会、きっかけという偶然性なるものがあるのだろう。
「合気道の稽古をしよう」というのには、心にゆとりがなければならない。
いや、行動力か。
それともチャレンジ精神か。
とにかく、その気になることです。
例えば、自動車が故障して修理工場等に手配すること等。
(稽古どころではない。熱中できない。)
腰が痛い、首が痛い。ちょっと調子が悪い。こんな時は思いきって休むのが良い。
稽古をしたくても稽古場所がない、稽古相手がいない。稽古場所はあっても道場が休みの時もある。
こちらがヤル気があれど、うまくタイミングが合わずチャンスを逃す場合が多々にある。
これこそが物事を成すのに何よりも重要なのでしょう。
合気道の稽古は、受けととりが交互に役割を分担して行う武道です。
いろんな稽古方法がありますが、合気道の稽古を通して人間関係を学ぶなら相手が必要ということになります。
他者を想定して一人稽古もできますけれども・・・
投げられた時に自分の身体を守る受け身の動作ができなければけがをするので、思う通りの稽古をすることができない。
投げられたときに衝撃を吸収することができる技術のみならず、丈夫な身体が備わっていることが必要だとつくづく感じます。
合氣道家には、整体師が多い。
稽古時間が決まっている時にはできる限り稽古開始時間に間に合わせること。
用事を済ませ稽古時間の中途から参加すると稽古の流れがあるので、「お邪魔虫になる心境」。
こう感じたら稽古は面白くない。
私は何しに来たんだろう。もっともいけない感情が沸き起こりがち。
何事も集中力です。
私はそう思って稽古してます。
合気道の稽古を通じて相手とのコミニュケーション を図るなり。
相手の思いに逆らわず相手の動きに合わせて動くことを心掛ける。
攻撃する側(受け)と技をかける側(取り)がそれぞれの役割をする。
その気になって動くこと。姿勢を正し受け(攻撃)ととり(仕手)の役割をしっかりすること。合気道には試合はない。
合気道は試合がない。試合がないということは勝ち負けがない。
勝った負けたというような心理的な意識の学習が気になるならば、それを克服するための哲学的な、あるいは宗教的ともいえる、こころというか精神面を感知するための学習、錬磨である。一つの表現活動を表層化するための役割演技。
それは武道としての演武である。
役割をしっかり把握して稽古に励みたい。
受けは、一般的にガチンコ体性で攻撃する。
攻撃、攻める気がなく崩れない体制で攻めても技がかからない。
武道の神髄を学ぶ。武士社会、歴史を学ぶ。
人間とは何か
生きるとは何か
仕手である取りは柔らかく動く。
相手を投げよう倒そうという気持ちさえも起こらない。
柔らかく円運動.回転運動,螺旋の動きをする。そして、相手と一体化し気を合わせる。
距離を保ちながらリズム、タイミング等をとりながら無心になって明るく楽しく動く。
これが対立しない和合の道へと繋がり平和な世の中を形成する働きとなる。
とはいえ、武道である。
肉体を使い相手と対峙する。体力的に頑強でなければならない。
身体が思い通りに動くことによって事を為すことができる。これは、心の働き即ち心理的な感受性が大きく作用する。
自分の姿勢は自分で矯正する。ゆがんだ身心を美しくする努力。自己意識これも心の働き。
相手を見ずして、全体の雰囲気等を感知しながら動く。
何もしないことをする。
形、型があるが、こだわりすぎて自由性、自分の動きを見失わず明るく楽しく稽古する。
個人の神聖を尊重する。
すごいですね。画像撮影する人がいるんですね。記録されているから後世の我々は学ぶことができる。
合気道の稽古を通じて創造性を発見しましょう。
私のスーパーバイザーの今は亡き恩師の先生が仰ってました。
「何もしないことをする」。このことは、年を重ねるごとに益々感じることです。
合気道でいえば、「投げよう、倒そう」という気持ちさえも抱いてはいけない、ということです。勝ち負けを超越したこころ、広い広い心、何事にもこだわらない心。
こころの働きが自分の身体活動に影響を及ぼし、相手との関係をもうまく調和しなくなるのです。
合気道の精神
合気とは愛なり。天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を完遂することこそ武の道であらねばならぬ。
合気とは自己に打ち克ち敵をして戦う心無からしむ、.
否、敵そのものを無くする絶対的自己完成の道なり。
而して武技は天の理法を体に移し霊肉一体の至上境に至るの業であり、道程である。
相対稽古は相手との関係性が大切だが、単独での稽古は自己との対話ともいえよう。
霊主体従
一霊四魂三元八力
大宇宙と一体化するため、ひとつの錬磨するための武道、合気道。
合気道、それは大ききとらえると健康保持、あるいは体力増進のひとつの運動です。
ですから、自分自身が納得できる動き楽しくなければ長続きしない。これはすべての運動に当てはまるものです。
その動きは、また醜いものでなく暖かく生活を和ませるものでなければばならない。
生存するのになくてはならないもの、その一つが呼吸力と言われるもの
呼吸法です。