少し昔の話をしたいと思います。
私は中学校時代
勉強というものは嫌いではありませんでした。
それも今思うと一緒に切磋琢磨した仲間がいたからなのだと思います。
ただ、そんな仲間が居ても
やはり好きな教科と嫌いな教科はありました。
私が嫌いだった教科
それは国語でした。
国語という教科は、数学とは違い
答えにたどり着くまでのプロセスが明確ではありません。
微妙な選択肢の違いなど
私にとってみたら、分かりようがなく
塾の先生となった今でさえ
読解問題の微妙な選択肢の違いに
なんだかなぁ、と思うことも多々あります。
私は中学時代、読解力というものが
読解問題が解ける力だとばかり思っていました。
ただ、アメリカの大学では
読解問題などというものはなく
多読と要約というものがほとんどでした。
こちらのほうが私には性に合っていた気がします。
おかげさまで、今でも多読する癖は抜けません。
そもそも読解問題の始まりは
子どもたちに本を読んでもらいたい
というものでは無かったのでしょうか。
最近の読解問題は、細かな所にこだわりすぎて
読書嫌いを促進している面もあるのかと思います。
読解問題を解けば解くほど、本が好きになる
本が分かりやすくなる
そんな読解問題なら良いのですが。
話がずれましたが
好きな科目は
意外にも社会でした。
この教科、あまり得意科目ではなかったのですが
歴史という壮大な人類の営みを知る事ができ
またそれに携わる偉人の話を聞くのは好きでした。
公民という身の回りの出来事を再認識することは
非常に知的好奇心が満たされる思いでした。
地理は未だに不得意ですが(笑)
今でも本屋さんに行くと
政治や経済の新書などを良く購入しています。
そんなわけで、よくよく考えてみますと
中学時代に習ったことは
自分の土台となる学びだったのではないか、と思うのです。
ちょっと長くなってきましたので
今日はこのへんで終わりたいと思います。
皆さん良い週末を!!!