先日、悲惨なニュースが起きました。
25歳の青年が秋葉原において、2トントラックで通行人をはね、7人を死亡させ、10人を怪我させるという事件です。
私はこのような通り魔、無差別殺人などのニュースを見るたびに思い出すことがあります。
それは、私がまだ小学生の頃でした。
場所は、東京にある祖母の家。
記憶はあやふやなのですが、小学生の私とおばあちゃんがニュースを見ていました。
その時に、殺人事件のニュースが流れていたのだと思います。
私はこう言いました。
世の中って恐い人がいっぱいいるね、と。
すると、おばあちゃんはお茶をすすり終わるとこう言いました。
誰も相談できる人はいなかったのかねぇ。
この人のお母さんも悲しむだろうね、と。
私は、おばあちゃんが言っていることを理解するまでずいぶんと時間がかかったのを覚えています。
それまで殺人犯とは、途方もなく恐く、頭がおかしい人間なのだろう、くらいに思っていたのですが
おばあちゃんのその一言で、その犯人の家族、友人などに想像がいくようになったのです。
すると不思議にも、殺人犯も1人の人間なのだと思えるようになりました。
もちろん、殺人という許されざる罪を犯したのは事実であり、被害にあったご家族の無念は一生涯晴れることはないでしょう。
殺人とはどんな理由であれ正当化できるものではありません。
ただ、この殺人犯を生み出した社会には何の責任もないのでしょうか。
なぜ25歳の孤独な青年は、誰にも相談できなかったのか。
“人生がつまらなくなった”それを打ち明けられる友人、親類、家族はいなかったのか。
1人でも心を開いて話を聞いてくれる人が周りにいれば、このような惨事にはならなかったのではないか。
私はそう思うようになりました。
秋葉原通り魔事件、それは、単純に心無い殺人鬼がトラックで人をはね、ナイフで人を殺すということだけではなく
母親・父親がいる1人の孤独な青年が相談相手もいない中で、最後の最後まで追い詰められ起こした事件でもあるのです。