授業準備の一環で、

明治30年代の雑誌を読んでいます。

 

羽仁もと子・吉一夫妻が創刊した

『家庭之友』という雑誌です。

 

当時「家庭」は社会ではやっていて、

「家庭」を冠した雑誌が多数発刊

していたようです。

 

『家庭之友』(創刊号は『家庭の友』)

は、羽仁夫妻の新家庭と連動した雑誌で、

彼らが自分の生活でもった疑問などを

専門家に取材し記事にする

といった感じでした。

 

この雑誌の創刊は1903年4月3日。

その前日の4月2日には長女説子が生まれています。

そして、1904年には次女の凉子が生まれます。

次女を産んだ際の克明な記録も

掲載されています。

もと子は自分自身の妊娠・出産さえも、

記事にしてしまうのです。

どれほど生活密着なんだ?!と

びっくりしますが、

これがなかなか貴重な記録で、面白いのです。

 

さて、出産の記録は、凉子の名前の意味

までも載せており、

読者はきっと、羽仁家の次女の誕生を

自分のことのように喜んだのではと

想像します。

 

しかし、この凉子は、百日咳をこじらせて

肺炎を発症。

1歳7か月で短い命を閉じるのです。

 

当時、複数の雑誌を出していた羽仁夫妻は

多忙を極めていました。

共働きで、女中はいたものの、両方の親族は

山口と青森と遠方です。

 

もと子は『家庭之友』の原稿を書きながら

凉子の看病をする。

しかし気が気ではない。

その気持ちを正直に記事に書く。

 

もう凉子はもたないかもしれない、

この雑誌が出るころには、天国へいってしまっている

かもしれない、でもどうか、読者の方には

治るように一緒に祈ってほしい、

という記事も載っています。

しかし、その記事の最後のページには、

凉子が亡くなったことが記されます。

 

その次の号は凉子の記念号で、

もと子と吉一がその悲痛な気持ちを吐露しています。

凉子の描写は、1歳代のかわいいさかりだった

子どもが、あっという間に天に召されてしまう、

その様子が克明に記録されており、

胸を打つ。

 

この夫婦は、正直な人たちなのだなということが、

伝わってくるのです。

 

夫妻は、クリスチャンでしたが、

凉子が亡くなったことを通して、

天国の存在を本当に信じるようになります。

そして、自分たちの仕事、つまり事業は

何のために行うかといえば、神が願った世界を

つくるためにするのだと、その年の最終号に

信仰を土台として進むことを明言します。

 

明治期、子どもを亡くす親は今よりもずっと

多かったと思います。

でも、どんな状況だったとしても、

子を亡くすという経験は、親にとって

本当に身が引き裂かれるような残酷な

出来事だったのでしょう。

 

人が神を信じるのはなぜだろうと、

たびたび考えることがあります。

神というのは、八百万の神でも、キリスト教

の神でもいいのですが、

どうして人は、自分の目に見えないものを

信じるのだろうと。

その理由はよくわからないのですが、

神を信じている人、信仰を持つ人というのは、

何か、潔さというか、いろいろな意味で

強い、と感じることが多くあります。

羽仁夫妻もそうです。

 

勤め先の学校の年史を作ったとはいっても、

細かく資料を調査していくと、

まだまだ分かっていなかったことが

たくさんあると思わされます。

きりがないです。

だから面白いんですけどね。