【小説】ぜんぜんないの | シュガー・ドラゴンのブログ

シュガー・ドラゴンのブログ

シュガー・ドラゴンのブログ

 日銭を稼ぐため、電気工事の仕事をした。といっても、工具や機材を運ぶ程度の、いわゆる手元作業だ。その日の工事は、テレビの交換取り付けだった。
「大切なお客さんだから」と言われて着いたのは、高級住宅街にある、瀟洒な一軒家だった。駐車場は鎖で囲われていたが、車がなかったので、作業車両はそこに停められた。テレビを抱えて玄関へ向かうと、女主人が招き入れてくれた。上がり框の真ん中に、後付けの手すりが据えられていて、女主人は身をもたせていた。
 室内は、隅々まで掃除が行き届いていた。天井まである本棚に、主には推理小説が、出版社と作家順に並べられていた。テレビ台を動かすと、「裏側を拭いてくださる?」女主人は雑巾を手にして「ぜんぜん掃除してないの」と言った。雑巾を受け取ると、水浸しだったので、流し台で絞りなおした。テレビの裏側など、年末くらいしか掃除しないものだ。言われた通りに拭いてみると、雑巾にうっすら、埃が移った。
 作業員さんがテレビを取り付けているあいだ、やることもなく立っていると、「お願いしてもいいかしら?」女主人から、声をかけられた。オイルヒーターを、テレビ台の脇に移動してほしいという。ざっと一メートル五十センチの距離だった。ヒーターを持ち上げると、五キロほどの重量。
「まだまだ寒いですからね」お安いご用とばかりに応じると、「ぜんぜん使ってないの」女主人が言った。オイルヒーターのデジタル時計は、「00:00」を表示して、明滅していた。ついでに、時間を合わせておいた。
 「もう一つ、頼んでもいい?」女主人は、固定電話の前に立っていた。作業員さんは、衛星放送の設定をしている最中だった。今度の頼みごとは、短縮ダイヤルの登録だった。電話の親機に、大きなボタンが三つあり、一押しするだけで、登録した番号へ電話をかけることができる。
「1が長男で、2を次男に」女主人が、メモ帳を差し出した。固定電話の番号が、綺麗な筆記で書いてあった。
「3のボタンはどうします?」
「じゃあ、先生にしようかしら」女主人は、電話機の前に貼ってある、かかりつけ医師の物であろう名刺を指した。名刺には、携帯電話の番号が、印刷されていた。ダイヤルの登録中、誤って長男の家に電話を掛けそうになった。
「危うく繋がるところでした」
「いいわよ。ぜんぜん掛かってこないの」
 テレビの作業は、終わっていた。リモコンに、衛星放送のチャンネルが、いくつか登録されているようだった。女主人が、リモコンを操作した。推理小説がお好きなようだから、その方面の専門チャンネルだとばかり思っていた。映ったのは、どれもアニメ番組だった。いつの間に持ってきたのか、女主人が写真館のアルバムを開いた。袴着の男の子を中心とした、七五三詣での時であろう家族写真が貼られていた。
「お孫さんですか?」
「孫はこっち。これは曾孫」
「よく遊びに来られるんですね?」
「ぜんぜん来ないの」
 女主人は、立つこともままならない足腰で、ぜんぜん来ない曾孫のために掃除して、ぜんぜん使わないヒーターを用意して、ぜんぜん見ないアニメ番組を登録して、ぜんぜん鳴らない電話を待っているのだ。
「他にお困りのことがあれば」思わず、たずねていた。
「これ、開いていただける?」女主人は、ビニールの手提げ袋を持っていた。「手が乾燥して、ぜんぜん開かないの」
 手提げ袋を広げると、女主人は、ポテトチップスを二つ、そこへ入れ、「おやつにして頂戴」と言った。
 作業車両は、すっかり陽射しを浴びていた。帰りの助手席は、暖かだった。ポテトチップスは、ぜんぜん来ない曾孫のために買ったのだろう。一つは三ヶ月後、もう一つは来月に、賞味期限が迫っていた。少しだけ、窓を開けた。ビニールの持ち手が、パタパタと揺れた。手を振っている、ようだった。


(終)