酒は好きだが、一人で飲むことはめったにしない。だから連れもいないのに、酒場の暖簾をくぐるなんてことはまずない。ところがその日はどういうわけか、無性に人恋しくなり、話し相手を探しがてら、偶然通りかかった「立ち飲み屋へべれけ」に、ぶらりと寄ってしまった。初めて入る店というのは、妙に緊張するものだ。「べ」の字のめくって、店内を覗いてみると、先客が二名いた。十名ほどで満員になりそうな小ぢんまりとした店だが、店内はなかなか趣があった。加えて壁に貼ってあるお品書きの値段にも、好感を抱いた。にもかかわらず、図体ばかり大きくて小心者な私は、「やっぱり止そうかな……」などと思っていた。すると、脇からにょきっと現れた店主が、
「いらっしゃい。二時までですけど、良いですか?」と人懐っこい笑顔で言った。思わずつられて、私も笑顔でこくりと頷いた。
「なんにしましょう?」カウンター越しにお絞りを渡しながら、店主が聞いてきた。
「とりあえず、ビール……」と言いかけて、私はふと思いとどまった。
先客の二名はすっかり出来上がっている様子で、もう五十はとうに過ぎていようかという白髪頭と、野球帽を目深にかぶったちょび髭は、カウンターに覆いかぶさるようにして談笑していた。よく見ると、店主の顔もだいぶん赤く染まっている。「ここは、手っ取り早く酔ってしまおう」そう思った私は、
「ビールは止めて、日本酒。冷で」と言った。
枡に入ったコップ酒を、一息に煽った私に、
「おにいちゃん、良い体格してるけど、飲みっぷりも良いねぇ」と白髪頭が言った。
「はあ、どうも……」と、私はなんだかキレの悪い返事をした。
白髪頭は「クックック……」と笑いながら、土踏まずの辺りをボリボリと掻いていた。そろそろコートが必要な季節だというのに、白髪頭は素足に草履をはいていた。私の視線に気がついたのか、白髪頭はおもむろに、
「私ぁどうも、靴下ってのが苦手でねぇ。クックック……」と、土踏まずをさすりながら言った。
「すみません、ジロジロ見てしまって。別に変な意味は……」私は慌てて弁明した。
「いいって、いいって……」白髪頭が大仰に顔と手を振った。
「あの、申し遅れました、私──」名乗り掛けた私に、ずっと黙っていたちょび髭が、
「シー!」と言って、人差し指を立てた。
唖然とする私に、白髪頭が「この店ではね、みんなあだ名で呼び合うの。私はこの通りの頭だから“白ジイ”。で、こっちがヒゲと帽子で“ヒゲ帽”ってのよ」と説明した。
私は彼らの直截なネーミングに、思わずクスリとほくそえんだ。
「おにいちゃんはでっかいから、“ジャンボ”だな。クックック……」“白ジイ”が言った。
「良かったら、お近づきのしるしに一杯おごらせて下さい。マスター、みなさんに同じものを……」私が言いかけると横から、
「マスターじゃなくて“へーさん”ってんだよ」と、“ヒゲ帽”がつぶやくように言った。
「ああ、では改めて。みなさんにお代わりを……もちろん“へーさん”の分も」私は言った。
「あいよぉ!」“へーさん”が威勢良く、満面の笑みで答えた。
新しいグラスを受け取ると、気を良くしたのか“白ジイ”が、浪々と話し始めた。
──あれは去年だか、一昨年だったか……まあ、とにかくそいつ、“五寸釘”が初めて「へべれけ」 にやってきたのも、今っくらいの時期のことだ。とにかく妙なやつで、いつも五寸釘を口にくわえて、それをペロペロやりながら、焼酎ばかりを飲んでたんだ。その癖だけは分からなかったが、気のいいやつで、酒も強ければ、博打も強かった。昨日はパチンコ、今日は競馬ってな具合だが、なんだかなんだでいつも勝ってくる。大勝ちした日にゃ、ここでもずいぶん大盤振る舞いしてったんで、ご馳走になったのは一度や二度じゃなかった。で、その“五寸釘”が、ある時私の足をジッと見つめて言ったのさ。
「“白ジイ”よ、おめぇ、足をどうした?怪我でもしたのかい?」
「バカ言うな。足を怪我して、立ち飲み屋で飲む道理があるかい?クックック……」
「バカはおめぇよ。足の裏を良く見ろやい、真ん中がボッコリ凹んでっから」
私ぁ、ヒョイっと片足を上げてみたが、別になんともなってやしない。
「からかおうってんなら止してくんな、酒がまずくなる。クック……」私が言うと、
「からかっちゃいねぇよ、見ろよこれ!」と、“五寸釘”が私の土踏まずを指差した。
私ぁ、あっ気にとられて、「“五寸釘”、今日は博打ですられたか?」
「いいや、勝ったよ」
「だったらなんで絡む?これは、ただの土踏まずだよ」私は“五寸釘”の手を払った。
「土踏まず?なんだいそりゃ?」やつは怪訝な顔で言った。目を見ると、どうやら本気らしい。
「足の裏ってのは、みんなボッコリなってるもんなんだよ。おまえさんだってそうさ」
“五寸釘”は靴を脱ぎ捨て、カウンターに素足を上げると、
「いいや、俺はなっちゃいないよ」と言った。
「いいから足を下ろさねぇか、いよいよ酒がまずくなる」
「見てみろって、俺の足は、鏡餅みてぇに真っ平らだ」やつは足を下ろさない。
「そりゃ、おまえさんが偏平足なだけだ」
「へんぺーそく?」
「ああ、土踏まずがないやつのことさ」
「いや、ちょっと待ってくれよ。そもそも、その土踏まずってのは、いったいなんだ?」
私ぁ草履を脱いで、身振り手振りやつに説明した。「だからよぉ、こう、地べたに立つだろ?そしたら、ほらよく見ろ、ボッコリが宙に浮いてるだろ?」
「宙に浮く?」“五寸釘”が聞いた。
「ああ、そう。宙に浮いて、ここだけ土につかねぇんだ。だからぁ土踏まず。分かったか?」
「……じゃあ、俺の足はどうなる?」
「偏平足かい?別に病気じゃねんだから心配ないよ」
「……宙にゃ浮かねぇのかい?」
「浮くわけねぇだろ」
「そんなの、分かんねぇだろ」
「分かるよ、ボッコリなってやしねんだから」
「そこがものの考えようってやつだ」“五寸釘”は急に神妙な顔で話し始めた。「確かに俺の足は、真っ平らだ。それをおまえさんが、ボッコリなってねぇって言いたくなるのも、分からないじゃあない……」
「だって、現によぉ──」私が口を挟むのを、
「いいから黙って聞け」やつは止めた。
「だが、俺のボッコリが、ものすごくデカかったとしたらどうだ?」“五寸釘”は、カウンターに上げた足を掴んで言った。
「どういうことだ?」
「おまえさんのボッコリは……言っても足の裏の真ん中、それも内側のところだけだ」
「……そうだよ」
「だが俺の足の裏は、そっくり丸々ボッコリなんだ」
「はあ?」
「全ぇ部ボッコリ。だとしたら、真っ平らだってのも頷ける」
「“五寸釘”、飲みすぎだ」
「そうは思わねぇかい?」
「思わないね」
「じゃ、確かめよう」
「どうやって?」
やつはくわえていた五寸釘を突きつけて、
「今からこいつを踏んづける」と言った。
「……なんだって?」
「踏んづけると言った」
「いや、だって……それこそ大怪我するよ?」
「でもボッコリなら、宙に浮くだろ?」
私ぁ、思わず噴出して、「本気か?」と言った。
「さあ、どうする?」と“五寸釘”。
「どうする?って……私ぁ、踏まないよ」
「賭けるのかって意味だ」
「……なにを?」
「今日の飲み代でどうだい?」
「なあ、悪いこと言わないから──」
「聞きたいのは御託じゃなくて、賭けるか、どうかだ」
私ぁ、黙って頷いた。
「“へーさん”、あんたが証人だよ」“五寸釘”が言った。
「で、どうなったんですか?」私は聞いた。
「その日は、私が支払った」“白ジイ”が答えた。
「え?」
「“五寸釘”……あいつは真の博打うちだ」“ヒゲ帽”が呟いた。
「あの、どういうことですか?」
「聞いてなかったのかい?やつが勝ったんだよ」“白ジイ”が言った。
「まさか、浮いたんですか……?」
「浮いたどころか“五寸釘”のやつ、『ぎゃっ』と叫んで月まで飛んでっちまったよ。クックック……」
(終)