「うらは、みうらのうらです。」
名前の字を聞かれたら、そう答えるようにしている。
入ったさきのシェアハウスでも、同じようにした。けれどもそいつは「おもてうらのうらか。」といって、自分で笑っていた。面倒くさいやつだなとは思ったが、引越祝いとかで焼肉を用意してくれていたのも、そいつだったので、仕方なく愛想笑いを浮かべておいた。けれども、やれ肉はまだ焼くなとか、あんまり箸でつつくなとか、いちいちうるさいので、やはり面倒くさいやつだとは思った。
二人部屋とは聞いていたが、八畳間に二段ベッドが置いてあるだけだった。カーテンで仕切れるようにはなっていたが、邪魔くさかったので取り払ってしまった。ついでに、壁ぞいに置かれていたベッドを、窓側に移動してやった。以前住んでいた部屋は、新聞屋の二階で、雑魚寝の生活だったので、息苦しいのがとにかく嫌だったからだ。焼肉でいっぱいになった腹を抱え、上の段にあがった。窓を半分開けて、外の空気を吸った。気づかぬあいだに、雨がふりはじめていた。布団は薄いものしかなかったが、そのまま眠りについた。
最初の一週間は、共用のリビングで好きなだけ寝ていた。朝と晩の飯は、毎度そいつが用意していたので、てっきりここは、そういうところなのだと思っていた。ところが、日毎にそいつの機嫌が悪くなってきて、ついにはいい加減に働けと言われた。しかも、できれば個人経営の店でという条件までつけてきた。心底から面倒くさいやつだと思ったが、言われっぱなしもしゃくに障るので、駅前の焼き鳥屋で働き口を見つけてきてやった。それを聞いて、そいつは鼻で笑うと、晩飯にスパゲッティをだしてきた。
しばらくしてから、そいつに飯炊きを手伝わされるようになった。ニンニクの皮を剥いておけとか、玉ねぎをみじん切りにしておけとか言い捨てておいてから、そいつはシャワーを浴びにいった。だから、剥きにくい小さなニンニクは捨てて、玉ねぎは粗く刻んでやった。風呂場から戻ったそいつがそれを見ると、またとやかく言いだした。頭にきたが、その通りにやってやろうとすると、自分でやるから部屋に戻るようと命じられた。その晩は、夜中に一人で飯をくった。
焼き鳥屋の仕事にも慣れてくると、まかない飯とは別に、売れ残った焼き鳥を土産にもらえるようになった。今夜は俺が飯を作るとそいつに言うと、また鼻で笑っていた。電子レンジで温めて串から外した焼き鳥を、丼に盛ったごはんに乗せた。ペロリと平らげたそいつは、砂肝が硬いとだけ言って、新たに自分で食べるぶんの飯を作りだした。
まかないと土産で飯が確保できるようになってから、そいつが作り置きした飯を残すようになった。バイトが休みの日、そいつが焼きそばを作っていた。ホットプレートを出して、肉と野菜をいため、五玉もある焼きそばを一度に焼いていた。そばを蒸らすための上蓋は、キャベツに押し上げられて閉まりきっていなかった。俺は鼻で笑ってから、それひとりで食うんですかと聞いた。するとそいつは、そうだと答えて、本当にひとりで平らげていた。その日は窓を全開にして寝た。
それからは毎食、飯はひとりになってくった。新聞屋にいたころの生活に戻ったわけだ。違ったのは、早起きしなくていいところだ。その代わりに、酒をよく飲むようになった。仕事が終わってから、飲む癖がついたからだ。おかげで、酒の肴の作り方も少なからず覚えた。ついでに、酔いつぶれて吐くことまで覚えた。
いつものように、仕事を終えて、共用リビングでひとり飲んでいた。真夜中過ぎになって、玄関が開いて、階段を上がる音が聞こえていた。その、足音を聞いただけで、そいつとわかった。珍しく、酔って帰ってきたようだ。そいつは共用リビングの一人がけのソファに──ほとんどそいつ専用になっていた──腰をおろすと、いつにもまして品のない笑い顔を浮かべてこういった。
「おまえ、中国人とのハーフだろう」
そうだと認めると、そいつは鼻で笑った。
それから、そいつがどういう話をしたのか、いまとなっては思い出せない。目が覚めると、二段ベッドの上で、開け放された窓から、月を眺めていた。思い出せるのは、高校もまともにいかずに新聞屋で働いて、そこも追い出されたあげくに焼き鳥屋で働いて、シェアハウスのいけ好かないやつに媚びを売って飯にありつく。そんな境遇に追いやった父親のことを、自分はどうしようもなく愛していたんだという事実に、気づいたことだった。
シェアハウスを出ることにした。酔った勢いでリビングを嘔吐物まみれにし、そいつ専用のソファも二度と使えぬものにしたのが、きっかけだった。退去する前日、そいつは手羽元のはいったカレーを作った。声をかけられこそしなかったが、「台所にカレーがあるのでどうぞ。」と書き置きがしてあった。炊飯器にごはんもたいてあったので、半分近くを丼に盛り、カレーを山と注いだ。「ありがとうございます。とくといただきました。」そう書き残して、退去した。来たときといっしょで、荷物はショルダーバッグひとつきりだった。国道に出た。左右を見まわしてから、車の流れに逆らうように歩きはじめた。
(終)
ご恩返しをさせていただく。
「Gouche」にて、昨年も訪れた札幌、八戸へ、今年も行くことが決まり、そうすることが出発を前に掲げた目標でした。
結果的に、目標を達成することはかないませんでした。
もちろん、精一杯つとめさせていただいたものの、札幌でも八戸でも、会う人、会う人から新しくご恩をいただいてしまったからです。
「楽しんでって!」とマグロの燻製をおまけしてくれた、お魚屋さん。
地震の翌朝に「大丈夫でしたか?」と笑顔をくれた、警備員さん。
公演後に「楽しく生きようと思いました」と言葉をくれた、お客さん。
返しても返しても、返しくれないくらい、またいただいて帰ってきてしまいました。
いまのわたしにできることは、ふたたびご恩返しできる機会が訪れたとき、そうできるように日々の準備を怠らないこと。そのために、風呂に入って、ごはんを食べて、ぐすっり眠ります。
おやすみなさい。
ありがとうございました。
佐藤竜
「ちーちゃん」彼女の声が聞こえてくる。
「どうしたの?」枕元にたって、私は彼女にたずねる。
「ちーちゃん」
「ちーちゃんいないよ。仕事だって」
「仕事いったの?」
「うん、そうだよ。夕方になるって」
「そうなんだ」
「どうする、電話してきてもらう?」
「しなくていい」
「そう。じゃあ、がまんできる?」
「できない」
「じゃあ、電話する?」
「しなくていい。忙しいから」
「そっか」
彼女は天井を見つめたままでいる。
「どうしたの?」私はたずねる。
「手がいたい」
「どっちの手?」
「どっちも」
布団をめくると、彼女の手が震えている。
「グーパーしてみて」私は言う。
彼女は手を握って開く。左手は、ほとんど動いていない。
「たまにこうやって動かさないと、痛くなっちゃうんだよ」私は言う。「病気じゃないから、安心して」
彼女は天井を見つめたままでいる。
「ちーちゃん帰ってきたら、伝えとくから。わかった?」
「わかった」
「じゃあ、目つぶって。」
彼女は目をとじる。
******************
「ちーちゃん」しばらくすると、また聞こえてくる。
「どうしたの?」私はたずねる。
「ちーちゃんは?」
「いないよ。買い物だって」
「そう」
「どうする、電話しよっか?」
「いい。今朝あったばかりだから」
「そっか。もう起きる?」
「起きない」
「じゃあ、寝てる?」
「寝てる」
「ちーちゃんには、来てもらう?」
「いい。あの子も大変だから」
「じゃあ、連絡だけしておくね」
「うん」
「目つぶって。」
彼女は目をとじる。
午後になると、こうやって彼女は、ちーちゃんを呼びつづける。
******************
「ちーちゃん」声が聞こえてくる。
彼女は天井を見つめたままでいる。
「ほら、ちーちゃんだよ」ちーちゃんが言う。
彼女は天井を見つめたままでいる。
「ごめんね、なかなか来れなくて」
彼女は天井を見つめたままでいる。
彼女の手が震えている。
ちーちゃんが、彼女の手を握る。
「お母さん」
ちーちゃんのお母さんは、天井を見つめたままでいる。
「ちーちゃん、もう帰るって」私がいう。
「私も帰る」彼女がいう。
「もうすぐお昼だから、ごはんだけ食べてって」
「わかった」
ちーちゃんが、席をたつ。
「ちーちゃん、またねって」私がいう。
彼女が、手を振る。
ちーちゃんが、笑う。
(終)
