イライライライライライラ
ここ最近、やる事が立て込んできた。
時間に余裕がなくなると、心にも余裕がなくなる。
焦り、苛(いら)立ち、言葉や態度がきつくなる。
「片付けなさい!」
「それくらい自分でやってよ!」
些細な事で身近な人に当たり散らす。
さっきまで普通に話をしていたと思ったら突然怒り出す。
そりゃ言われた主人や娘はポカ~ンだよね。
攻撃は最大の防御なり
アドベンチャーレースは不眠不休で動き続ける。
そうしているうちに、自分ではどうにもコントロールできない事に遭遇する。
例えば天候。
さっきまで穏やかだった海が急に荒れだす。
先行チームは難なく通過したのに、自分たちの時は停滞を余儀なくされる。
「あと数時間速ければ、ここは抜けれたのに」
例えば睡魔。
猛烈な睡魔と戦いながらも動き続けなければいけない状況。
「少しだけ眠らせて」
そんな言葉を今出してしまうと、急激にチームのペースを落とすことになる。
例えばチームメイトの言動。
普段なら気にもならない言動も疲労困憊の中で聞くとなぜか癇に障る。
言い方、受け答え方、バラバラなペース、さらには臭い、声の音量、笑い声…。
細かいストレスが積み重なり、やがて限界に達する。
「こんなはずじゃなかった」
「本当は自分はこうしかたった」
「あの人(チーム)だけズルい」
「こうなったのはあの人のせいだ」
後だしジャンケンのような言動、物事を損得勘定で査定し、他人のせいにし、攻撃し、悪態をつき、挙句の果てに天候やモノのせいにする。
『責任転嫁』は一番簡単な自分を守る方法であり、最大の防御なのだ。
人を診るな、意見を診ろ
ではチームのためにどうしたらいいのか?
「こうなったのはあの人のせいだから、一言いっておこう」
今その意見がチームのためになるのだろうか。
今のこの言動は本当にチームを想ってのこと?
それとも自分の感情を吐き出したかっただけ?
どっちの方角に進むべきか。
休むべきか進むべきか。
その提案に対する反対は、それを出した人に対する感情で判断していないか?
そしてその判断を「だってこうだから仕方ない」と正当化していないか?
合う、合わないはある。
好き、嫌いもあるだろう。
しかし時に命に関わる判断を余儀なくされるアドベンチャーレースは、通常の仲良しこよしでは越えられない。
それがチームであれば、合わなくても嫌いでも、その意見にも耳を傾けること。
それは素晴らしいアイデアかもしれない。
苛立っている時こそ「人を診るな、意見を診ろ」である。
それは本当にチームのため?
エゴが剥き出しになるのはアドベンチャーレースだけではない。
家庭でも、会社でも、学校でも、地域活動でも、どこにでも起きることである。
それでも家族と、同僚と、クラスメイトと、友達と越えていかねばならない。
ならば、抑制の効かない苛立ちから吐き出た言葉の意味を考えてみたい。
その言葉は本当に相手を想ってのことなのか?
その言葉は自分の感情からなのか?
その言葉の意味を正当化していないか?
それって私の感情ですよね
さて、問題の家族に当たり散らす私。
「なんでもっと私のやってることを認めてくれないの!」
「私は奴隷じゃないんだからね!」
な~んて被害妄想的に思ったりもするけれど、決して彼らを攻めたいわけではない。
手抜きの家事を正当化するのは、私の感情だけのことなのだ。
むしろ、そんなのに付き合ってくれる家族に感謝である。
このブログを書いていたら、すっかり時間が経った。
はい、今夜は(も)手抜きご飯です。