女流画家として生まれ、明治大正を生きた河鍋暁翠(カワナベキョウスイ)の物語。
「星落ちて、なお」
澤田瞳子著 文春文庫
(351頁)
のっけから申し訳ないんのですが―、
どう書いていいかわかりません
そもそも読書というモノは、受け手が百人居れば百通りの物語があって良いモノでございます。
ただ、本作の場合、私の中でも何通りの読み方が出来て、それぞれがとっても深かったんです
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本作は、明治22年から大正13年まで、数年から10年単位の区切りで進んでまいります。
物語は、主人公・とよ(画号:暁翠)の父・河鍋暁斎(カワナベキョウサイ)の葬儀直後の場面から始まります。
幕末~明治を生きた天才絵師・河鍋暁斎―。
狩野派の技法を軸に様々な画題を描いた彼は、その画力と奇想から葛飾北斎と並び称される存在でした。
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ふと気が付けば、喪主であるはずの兄・周三郎(シュウザブロウ)の姿が見えません。
幼い頃に養子に出され、17歳で河鍋家に戻ってきた周三郎―。
彼は、そもそも"絵師でなければを河鍋家の人間と見なさない”父・暁斎を嫌っていました。その為、精進落としを早々中座して、帰ってしまったようでした。
―幼少期から父によって絵の手ほどきを受けたとよとは違い、彼の画業はあくまで出戻ってからのスタート
そんな訳で、周三郎はとよに対して、何かとキツくあたります。
「おとよの絵のどこに才なんてものがあるってんだ。親父どのは、ただ葛飾応為(オウイ)みてえな女絵師を自分の娘に持ってみてえと思っただけだ」
―葛飾応為は北斎の三女で、晩年を支えた女流画家です。
なお、暁斎の才能を1番受け継いでいたのがこの周三郎という、なんとも皮肉なお話でございます
そして、その河鍋暁雲(キョウウン:周三郎の画号)も、父・暁斎には及ばないという皮肉×2
とよが生まれた明治という時代は移ろいが早く、西洋の文物ばかりがモテはやされていきます。ややもすれば、天才絵師・暁斎でさえも過去のモノとなっていくのです。
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周三郎の不在に憤慨しているのは、質屋を経営している真野八十吉(マノヤソキチ)で、それをなだめているのが、如才なく葬儀を取り仕切った鹿島屋清兵衛(カシマヤセイベエ)という構図―。
暁斎とほぼ同年代の八十吉と、豪商・鹿島屋の養子である清兵衛は共に暁斎の弟子でした。
取り敢えず周三郎の暮らす別宅へ走るとよに、八十吉の息子の八十五郎(ヤソゴロウ)が付き従います。
この晩、気難しい周三郎ととよの間でひと悶着あったのですが、もう面倒臭いので「兄は不在であった」と口裏を合わせた2人―。
―とよは22歳(明治元年生まれです)で、八十五郎は16歳でございます。
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「困ったお人だ」「まぁまぁ」なんてやり取りの中で、八十吉から不穏な話を聞かされるとよ―。
「周三郎さんが暁斎の遺品をまとめて清兵衛に売ろうとしている」
この遺品というのは、弟子達にとって手本となる狩野派の作品や、モチーフとなる仏像・能面等、貴重なモノばかり―。
勿論、とよには寝耳に水の話で、そこら辺を勘ぐった清兵衛も「勿論、お話は保留にしております」という事でした。
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ここで、本作の主要キャストが出揃いました。
とよの父親代わりとして、結婚の世話までする真野八十吉と、弟分を自認し本作でもその晩年まで登場する八十五郎―。
暁斎亡き後のとよを心配し、鹿島屋の元隠居所を新しい住居に提供してくれる聖人のような鹿島清兵衛―。
そして、反目しつつもとよを河鍋家の血縁として認めてはいた兄・周三郎―。
彼等とその家族に様々な変遷が訪れ、時代は明治から大正へと移っていきます
「あの親父は、俺たちにゃ、獄(ひとや)だ」
これは、暁斎と同じ病に倒れた周三郎の言葉です。
暁斎の才能へ少しでも近付かんとした周三郎と、時代の波から暁斎の絵を守らんとしたとよ―。
2人にとって、河鍋暁斎の血は確かに"業(ごう)”であったように思います。
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ここから先は、あくまで私見なのですが―。
天才と称される人は、思考が柔らかく新しい知識や技術にも貪欲なんですよね。
そして、それらを消化し自らのスタイルに活かしていく。
そんな天才の後を継ぎ、そして、そこまでの才能がない人達ほど固定されたスタイルに固執する気が致します。
(これはある意味、必然なのでしょう)
実際、本作中でのとよは暁斎の絵に真摯に向き合うあまり、随分と頑なな面がありました。
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本作のタイトルは、河鍋暁斎を光り輝く"星”とし"その後”を生きた人々の物語という意味なのだと邪推しています。
とにかく、とよを始めとして、周囲の者達とその家族―とりわけ女達の生き様が凄まじいです
どこを切り取っても、どんな切り口でも濃密に展開されるドラマに、読んでいながら翻弄される気分でした
良い意味で―
目が回る、そんな感じでした