「谷根千」として知られる、台東区・千駄木付近が舞台でございます。
「心淋し川」
西條奈加著 集英社文庫
(271頁)
―ちなみにタイトルは"うらさびしがわ”と読みます。
大名屋敷の下(しも)にある窪地―。
ドブ川が淀み、掘立小屋がひしめくその一帯は心町(うらまち)と呼ばれています。
訳ありや極度の貧乏人がその身を寄せ合い暮らす、掃き溜めのような場所―。
ある日、心町の差配(さはい:長屋なんかの管理人です)・茂十(モジュウ)は、ここで生まれ育ったちほというお針子に言うのです。
「この川は、ほんとは"心淋し川”と言うんだよ。私はその名前を聞いて、ここの差配を引き受けた」
『へぇ、でも蓋を開ければ淀(よど)んだドブ川だもの、ガッカリしたろ』
「いや、そんなことはないよ。誰の心にも淀みはある。事々を流しちまった方がよほど楽なのに、こんなふうに物寂しく溜め込んじまう。でも、それが人ってもんでね」
―こんな感じの連作短編集の中から、ちょっと書きづらいのですが、圧倒的に刺さった『閨仏(ねやぼとけ)』をちょっぴり
※※※※
心町には六兵衛長屋と呼ばれる建物があります。
長屋のように複数人が住んではいるのですが、実際にはくたびれた一軒家でございます。
現在、そこには歳の順からりき、つや、ぶん、こよの4人の女性が住んでいます。
4人は、お多福(おたふく)顔のりきを筆頭に、皆タイプの違う不器量―。
4人は、大隅屋六兵衛(オオスミヤロクベエ)という男にまとめて"囲われている”のです
―4人も面倒をみるくらいですから、六兵衛はお金持ちです。しかし、それそれに屋敷を与えるのではなく、1カ所に集めちゃうくらいですからケチでも有名なんです。
まぁ、お金持ちほど効率を重視しますから、愛人もつきつめれば‥‥‥
※
無論、最初はりき一人でした。
20歳になったりきに良縁はないかと相談を持ち込まれた六兵衛が、「それならあたしが―」となったのです。
いわく「そのお多福顔が気に入った」という六兵衛―。
「お多福は福が多い。あんたの器量は、授かり物だよ」
それは、実家でも疎んじられていたりきを唯一可愛がってくれた祖母にも言われていた言葉。
4年経ってそこにつやが加わります。そして、さらにぶんとこよが加わりました。
しかし六兵衛は誰を追い出すでもなく、4人を大事に扱っていました。
まだ、つやと2人の時は、りきにもちゃんと"お声”がかかっていました。しかし三十路をとうに越えた今では、もっぱら家事を請け負いヤキモチ妬(や)きのつやをなだめる毎日―。
※
りきがこの心町にやって来た頃、向けられるのは侮蔑の視線でした。しかしつやが加わると、その表面に憐憫(れんびん)が混ざるようになりました。
勿論、「あんたも可哀想に―」の裏側にある鈍い刃物によってりきは日々えぐられて来ました。
それに、妾4人同居というこの非常識な形態には、今でも心がざわつきます。
つやが来た時に、六兵衛に自ら暇(いとま:離縁)を請おうかとも思いました。
しかし、自分を持てあました挙げく、妾として"売った”両親の元へは死んでも帰りたくない。そこからさらに、ぶんが来て、こよが来て‥‥‥皆、自分と同じ境遇なんだと思うようにもなりました。
※
りきは近所の根津権現に足繁くお参りに行きます。
行き合った差配の茂十が「それなら、楡爺(ニレジイ)にこれを―」と握り飯の包みを指し出しました。
楡爺も六兵衛が拾ってきた老爺(ろうや)で、その時からだいぶ呆けていました。
六兵衛長屋の物置に寝泊まりしていて、昼間は根津権現の裏門にある楡の木の下で物乞いをしています。
誰に対しても気の回る茂十は、特に楡爺の事を気に掛けています。
りきは、いつも権現様に"ある物”を持ってお参りに来ます。
※
つやが来て2年くらいの頃―、
六兵衛と閨(寝室)に入ったつやの声を否応もなく聞いていたりきは、ふとある物に目を留めます。
それは六兵衛が持参し、そこに落としていったらしい―
"男性自身”を模したヤツ
滑らかに仕上げられたソレを手に取ったりきは、その滑稽な形にふと小刀を手に取ります。
大好きな祖母は手先が器用でした。りきはそれを真似て、穏やかな顔と合わせた両手を彫り込みます。
数日後、その"仏像”をいたく気に入った六兵衛はりきに次第を問い、なんと「あと数体頼む」と注文をよこすのです
それから、その"仏像”を仕上げる度に―
『罰当たりなモノをすいません』と権現様に手を合わせるりき―。
ある時、彼女はその境内で中年の仏師と出会います。
※
その後、長屋で六兵衛が亡くなり、妾であるりき達には居場所すら‥‥‥。
※※※※
終盤、明かされる六兵衛の闇に、そもそも心町という闇―。
でも暗い程に、一粒の光明がとても眩しく見えます。
怖くて、物悲しくて、滑稽で‥‥‥。
本作は連作集なのですが、なかなかお話のピースが埋まりません。
その分、最後の『灰の男』は、本当に―
圧巻でした