前回ご紹介いたしました西條奈加先生の直木賞受賞後第一作「曲亭の嫁」
その中に、いくつかニンマリしてしまった部分がございましたので、今回はそちらと泡坂妻夫先生の「写楽百面相」から―
ちょっぴりツマんでみようと思いますす
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過去には職人との板挟みになり、たった十冊で音を上げた版元もあったという。先に丁子屋平兵衛が茶飲み話に語ってくれたことがある。
「平林堂と言いましてな、先生が世に知られるきっかけとなった『椿説弓張月』を出した版元です。版した十冊はすべて、曲亭馬琴作、葛飾北斎画でしてな」
(「曲亭の嫁」225頁より)
滝沢馬琴は、この小説の中でその身勝手で偏屈な様がこれでもかと描かれております。そして挿絵が―、
葛飾北斎
葛飾北斎と言えば、数々の逸話(奇行?)がございますが、いくつも名前を変えた事でも有名です。晩年、彼が名乗ったは―
《画狂老人卍(ガキョウロウジンマンジ)》
現代の漫画家さんだってこんなペンネームにはしませんよ、たぶん。
とにかく斜め上を行ってますねぇ
ここで言及されている平林堂という版元(出版社)は、妥協を許さない2人の板挟みになって大変な苦労をしたそうです。
結局、高齢でもあった平林堂の社長は、『南総里見八犬伝』の出版を馬琴から打診されたそうですが、丁重にお断りしたそうな
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こちらは、馬琴が師匠とも言える山東京伝の葬儀に行かなかったという件(くだり)で、『八犬伝』の版元と主人公・お路(オミチ)の会話でございます。
京伝と馬琴という売れっ子作家のお陰で、出版業界の裾野が広がった。
その反面、出版社は損をする事にもなった、という流れ―。
「何のお話でしょう?」
「潤筆(じゅんぴつ)ですよ。蔦重と鶴喜が、京伝・馬琴のお二人に限って潤筆を支払った。つまり、書画文筆に、生活(たつき)の道を拓(ひら)いたのです」
(「曲亭の嫁」108頁より)
潤筆とはつまり原稿料の事―。
驚くことに、それまでは書画や文筆はあくまで趣味や余技であって、収入にはならなかったんです。
かつて「弟子にしてくれ」と馬琴が押し掛けた時、京伝は―、
「他に収入ないとやってけないよ、マジで」
みたいな事を言っていたようです。
それが、"書けばその分だけ収入が発生する”ようになったんです。
京伝と馬琴の2人は日本における最初の職業作家と言えるのかもしれません。
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さてさて、ここからお話は大きく脱線いたします。
と言うか―、
ここから先が今回の本題でございます
京伝と馬琴には原稿料を払う事にしたという2人の名前―。
この蔦重(ツタジュウ)と鶴喜(ツルキ)というのは、版元の主の名前でして、それぞれ蔦屋重三郎(ツタヤジュウザブロウ)と鶴屋喜右衛門(ツルヤキエモン)と申します。
特にこの蔦重さんは、出版業界における敏腕プロデューサーでございました。
優れた作家や絵師を発掘し、さらに新たなトレンドを発信したのでございます。
泡坂妻夫先生の「写楽百面相」には、こんな記述もありました。
(会話部分だけ抜粋いたします)
「蔦重は強的(ごうてき)に先の見える男だ」
「ご存じだろうが、蔦重ははじめ吉原の蔦屋の養子になり、大門口五十間道に小さな本屋の店を構え、吉原細見を売り出してたちまち大きくなった。次に、今流行の富本の正本の版元組合に加わって、富本正本を出版するようになる。(中略)その間にも、哥麿を筆頭に多くの絵師を育て浮世絵を開版する」
「蔦重が日本橋通油町へ進出してからは、狂歌の時代だ」
「確かに天明は狂歌が全盛だったな。蔦重は狂歌でも工夫を凝らした。狂歌と浮世絵を結び付けて『吾妻曲狂歌文庫(あづまぶりきょうかぶんこ)』は北尾政寅の絵が股美しく上上の出来映えになった」
「次が、道陀桜さんの黄表紙でしょう」
「(前略)蔦重も目算はあったろうが、あんなに売れるとは思わなかった。あまりに評判になりすぎて公儀の目に止まって発禁。俺も朋誠堂喜三二の名が使えなくなった」
(「写楽百面相」110~111頁より)
そこから、蔦重さんはさらに判りやすい川柳を扱うようになり、さらにさらに‥‥‥てな具合の隆盛ぶりでございました。
なお―、
2025年度の大河ドラマは、この蔦重さんが主人公のようです。
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考えて見れば、日本の出版文化はたいした物でございます。
安価で面白い本を読む為に、"貸本”だってあったんですから
レンタルですよ、レンタル‥‥‥
‥‥‥‥そう言えば―、
皆様もナニか思っていらっしゃいますよね。
出版社の社長で名前が蔦屋重三郎‥‥‥‥
はい、彼は皆さんご存じの『蔦屋書店』や『TSUTAYA』と無関係ではないんです。
ただし、実際に蔦重の子孫の蔦屋○○さんとかがやっているわけではなくて、創業者の方が《蔦重》にあやかって名付けたそうでございます。
それでも、ある意味で江戸時代の出版文化が現代まで繋がっているような気が致します