「母の日に贈る言葉」 | suehisa223のブログ

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「母の遺した畑」

 

 母の遺した畑というが、実際のところはそうした畑はもう無くなっている。正確に言えば、母の遺志を受け継いだ畑があるのだ。

 九十三歳まで生きた母は、病床に付いた九十二歳まで手押し車を押して毎日のように畑に出かけていた。私の住む村では有り触れた光景であり、農家の女の仕事の一部といってしまえばそれで済むような話である。

 段々と年老いて非力になっていった母は、畑を耕すこともままならぬようになり、そんなときには私を呼んでここを耕して欲しいと頼みに来た。私が耕せばあっという間に終わるような作業であるのに、私は自分が遊びに行きたいものだから、母の頼みを不機嫌な顔をして応じるのが普通のことだった。

 その母が九十三歳で亡くなり、後に残った畑を私が受け継ぐことになった。人間というものは現金なもので、いざ私が畑をするとなると、自宅の空き地を耕して畑を作り、ミニトラクターを駆使して畝立てをしている。九十歳を超えた老女が、毎日手押し車を押して自宅から何百メートルも離れた畑に通うのはさぞ大変だったろうと今にして想うが、母が元気でいる内はそんなことは気にも留めなかった。私は、どうして年老いた母のために自宅の空き地を耕して畑を作ってあげなかったのか、そのことばかりが今も心残りであるし、後悔の念を未だに引きずっている。

 私は、畑に野菜の種をまいて収穫をするまでの間、根気を詰めて作業を継続することができない。最初に種をまいて、苗を植える辺りまでは熱心なのだが、しばらくすると畑作業が億劫になってくる。それというのも、野菜が大きくなるに連れて、雑草までもが大きくなってきて、しかも数の上では圧倒的に雑草の方が多くなるからだ。我が家は、無農薬栽培であるが、無管理栽培でもある。

 その点、母もそうであったが、村で野菜作りをしている女性たちは実に根気良く、しかも丁寧な作業を継続している。一見、雑草の生えていないありふれた畑の光景は、多くの労力を投入することによって人為的に作られている。私のようないい加減な野菜作りでも、瓢箪から駒が出たように見事な野菜ができることがあるが、村の女性たちの毎年計算したような出来栄えにはまだまだ及ばない。

 しかし、世の中捨てたものではない。今年に入り、私が作った玉ネギ、ジャガイモ、なすび、きゅうり、スイカ、トウモロコシと、これまでの成績を大幅に上回る収穫を残すことができたのだ。お陰で、家族や親族内で私の株は一気に上昇し、今や大きな期待を一身に寄せられるまでになった。

 母は生前スイカが大好きで、毎年のようにスイカの苗を植えていた。ところが、スイカという作物は案外難しいもので、中々計算どおりの収穫を行うことができない。そういう中で、今年の私には偶然に偶然が重なり、紅くて美味しいスイカを十五個も収穫することができた。仏壇にスイカをお奉りすることができたのは、五十八歳になる私の成長の証だと自負している。

 老いていくことを毛嫌いする人は多いが、私は老いていくことは成熟の過程だと常々思っている。歳を重ねるに従い、人は自分の親の人生をなぞるようにして生きていく。その毎日の連続の中で、親の人生が段々と理解できるようになっていく。自分が老いていくことでしか実感できない人生の真実があるのだと、私はこの頃捉えるようになった。それは、人生決して嬉しいことや楽しいことばかりではないけれど、辛いことや哀しいこともしっかりと受け入れるだけの成熟を人間は手に入れることができるのだと言い換えてもいいだろう。

 すでに父も母も他界し、両親と語り合える日常というものを失ってしまった私だが、畑仕事は私を母に近付けてくれる。雑草を抜く作業は根気が要るが、それをしないといい野菜は作れない。無駄のような労力と時間にも思えるが、これを避けては通れない。人生も良く似た部分があり、親としての人生は、子どもに何の代償を求めない根気と愛情の連続だ。根気と愛情を注げば、それに応えるように子どもも野菜も生き生きと大きく育っていく。

 スーパーに行けば、美味しそうな綺麗な野菜がふんだんに並べられている。費用と労力だけを考えれば、スーパーに直行するのが合理的な選択であろうが、自分の作った野菜を食べるのはとても贅沢な味わいだ。家族のために美味しい野菜を作る、それが母の遺した畑であるし、その作業が今の私にできる母への親孝行なのだと思っている。

(作:陶久敏郎)

 

第11回とくしま文学賞(平成25年度)随筆の部 優秀賞受賞作