最近、人間関係のメンドクサさに疲れています・・・
私自身のではなく、
とある組織内に関わっていて感じることです。
詳細は書けませんが、
Aさんが、数年前に起こったBさんのミスを許せなくて、
いまだにBさんに怒り、謝罪を求めているという事案・・・
この話に関わっていて、つくづく、
私にとっては「正義」という価値観が大事なんだなーと感じています。
みんな、初めは怒りをぶつけ続けられるBさんが不憫で何とかしようとするんだけど、
話の通じないAさんへの対応がめんどくさくて、Bさんを不当に処分し続けている
という、私からすると許すまじき事態に陥っていて…
Bさんは、確かにミスをした。
けれど、ちゃんとその場でもその後も謝罪したし、それ以上どうしろと…?
Aさんが自分の感情に折り合いをつける以外、解決の糸口が見えません…
(だけど、Aさんの話をしっかり聞いて解決してもらうには、
こちらの消耗が酷すぎるので、私もそこまでは関われておらず…)
怒りをはじめ、ネガティブな感情のパワーって、
自分で永遠に油を注ぎ続けられるんですよね。
怒りが怒りを呼ぶ。
不安が不安を呼ぶ。
悲しみが悲しみを呼ぶ。
解決するには、自分でその感情の根っこに向き合うしかない。
向き合えないなら、プロの力を借りて、さっさと手放したほうがいい。
特に、怒りというものは「2次的な感情」だそうで、
その大元となった感情と向き合わないと、解決が難しいようです。
そんなわけで、執拗に怒り狂うAさんのことを考えながら、
昨日の体操教室での自分の怒りに向き合ってみました
私の昨日の「怒り」の根源にあるのは、
「コーチ陣の不誠実さへの不満」であり、
「社会の理不尽さに向き合わされた娘への同情」であり、
「娘のために闘いきれない自分への不甲斐なさ」であり…
あ、そうだ。一番は、娘への申し訳なさだ。
これがフランス人の親だったら、もっと言葉巧みに、強引に、
再テストを受けさせられたんじゃないか?
中途半端に娘を傷つけただけになってしまったのではないか?
母親である自分が外国人であること、
フランス語が100%不自由しないレベルではないことへの劣等感。
そういう部分が、今回の「怒り」につながっているように思いました
その割に、「もう行きたくない」「他の習い事をしたい」と言い出した娘に、
もう1年分のレッスン代は払ってしまったから、
やっぱり今年はとりあえず通ってほしいと思ってしまうし
勝手に共感して、感情移入しておきながら、ひどい親だなぁ、と我ながら思う・・・
ぐるぐる、もやもや、とまだ黒い感情が渦巻いている土曜の夜。