「世界は自分の投影である」と知ることが、
人生のほとんどの問題を解決する鍵だと思います。
・・・というと、少し、謙虚すぎる表現ですよね、
「世界=自分の投影」として生きる時、人生に、問題は起こらない。
これくらい言っていいと思います。
私たちは、自分が知っている知識や、自分の思い込み、信念をベースにして、
出来事に意味を与え、その与えた意味の通りに現実を体験します。
「気遣いできるのは、良いことだ」という信念があれば、
人を、気遣いできるorできない という尺度で判断することになります。
それは、すなわち、気遣いできない「ダメな」人との出会いが
生み出されるということです。
気遣い・・・・にまつわる信念を持っていなければ、
そのような人と出会うことがありません。
とても簡単な話です。
例えば、「足のサイズが大きい方が良い」という信念を持っているとします。
足のサイズという尺度で世界を見るわけですね。
すると、「足の大きな人」や「小さな人」との出会い」が人生に起こります。
皆さんは、今日、足の大きな人と出会いましたか?
足の小さな人に囲まれていますか?
答えはNOです。
足のサイズにまつわる尺度、信念を持っていない人にとって、
足の大きな人と小さな人は、存在しません。
その人の人生に、そういう出会いは、ありません。
ここは重要ですよね。
足の大きな人も、小さな人も、存在していますけれど、
そこにフォーカスして眺めていなければ、存在していないのと同じ。
話を戻しましょう。
「気遣いができるのが良い」という信念がなければ
気遣いができる人・できない人、双方との出会いがなくなります。
文字通り、人生から消えます。
逆に、その信念を固く握りしめているのなら、
必ず、「気遣いができない”ひどい”人」との出会いが待っています。
同じように、
・感情的になってはいけない
・未熟であってはいけない
・女性的であってはならない
・男性的でなければならない・・・・
という信念を持っている限り、感情的で、未熟で、性的な人間と出会います。
自分が、そのように相手をジャッジメントし、そのような存在として
構成するからです。
すると、即座に信念システムが反応します。
怒り、悲しみ、恐れが生み出されます。
ストレス体験、イライラ体験、許せない体験。
そして、「傷つく」という体験をします。
傷つくというのは、自分の信じる世界観=信じている世界感=信念の殻に、
ひびが入る、という体験です。
信念にひびが入ると、僕らは大慌てで、犯人を糾弾します。
あなたは、なんてひどい人だ!私は、傷つけられた!
自作自演の壮大なファンタジーが始まります。
それを生きる本人からすると、確固たる現実です。
けれど、それは影でしかありません。
自分の影にどれだけ働きかけても、影はいつでもそこにあります。
自分の投影以外を、僕らは触ることも、生きることもできません。
世界は、自分の信念の投影体である。
世界とは、自分の鏡である。
そのことを本当に自覚したとき、本当に理解したとき、
自分で悪を作り出し、自分を傷つける
というマッチポンプからの出口が開きます。
ひどい人、悪い人、だめな人と出会い、
恐れ、傷つき、イライラする人生を卒業し、
素敵な人、愛しき人、面白い人と出会い、
愛し、慈しみ、ワクワクする人生へと入っていきます。
繰り返しますが、とてもとても簡単な仕組みです。
ひどい人を作らないから、出会わない、
悪い人を作らないから、出会わないという、
単純明快な物理法則の結果です。
故に、この法則から、
自分の持っている信念、尺度、正義、常識、道徳、モラル、マナー、ルールの量と
それに反する人、それを裏切る人と出会う確率が比例することがわかると思います。
ルールが10個の人と、ルールが100個の人、
ルール違反に遭遇する確率は10倍です。
だから、ただただ捨てる。
何が正しく、何が間違っているのか。
何が善く、何が悪いのか。
何が美しく、何が醜いのか。
自分が信じてきたもの、自分が教わってきたもの、
そのすべてを、ひとつひとつ、丁寧に手放していく。
感情が揺れたなら、自分に出会うチャンス。
自分のまだ気が付いていない信念を見つける最大の機会です。
そうか、自分の中にこんなこだわりがあったのか・・・
そんな風に、出来事と出会っていく。
この作業の先にあるのは、
みんな懸命に、美しく、精一杯その人を生きているという感覚です。
良いも悪いもなく、美しいも醜いもなく、未熟も成熟もなく、
ただ、それぞれが、その生を全うしている。
それは「足りている」という感覚です。
そして、いつの間にか、自分の周りに、素敵な人ばかりが、
愛しい人ばかりが集っていることに気が付きます。
そして、愉しいことばかりが、やってきます。
もちろん、目の前にやってくる出来事、仕事を「苦役」とか
「押し付けられたこと」とか「めいわく」とラベリングしないので、
ただ、淡々と、愉しく、懸命にやる→結果、愉しい!
ということですけれどね。
さて、長くなりましたけれど、もう一度、
世界は投影である、世界は自分である、全ての出会いは自分との出会い、
許せない相手とは、許せていない自分との出会いだ、
ということを、書いておきたいと思いました。
そろそろ本気でそれが問われそうです。