僕の考えるプロセスを、そのまま残してみる試み。
基本的に文章は上から下まで、浮かんできたままに書いていく。
どんな風に、アイデアが展開していくのか、自分に期待。
エピソード1。
先日、ひょんなことから知り合ったAくんと、
何人かで話する機会があった。
Aくんは、とっても柔らかく、とっても物腰が低く、謙虚である・・・が、
実は、とても教育的なことに気がついた。
多くの会話が、
「こうした方が良い。こうすればいいですよ。これは、こうですよ。してください!」
という終わり方なのだ。
・自信を持てば、大丈夫ですよ。
・それをやってダメなら、もうやめた方がいいですよ。
・◯◯さんは、才能があるから、それを続けてください。 etc
相手のためを思った発言だし、勇気づけたり、肯定したりと
とってもポジティブな内容なんだけど、
全部、相手に、「何かをさせる」ことを意図した発言なのだ。
そして、そんな彼が、今抱えているのは、「他者からの支配」というテーマ。
彼は、上司との関係性に悩んでおり、
やりたくないことをさせられて、苦労している。
* * * *
エピソードその2、
同じ頃、受けた相談の内容。
母親との関係に悩んでいるBさん。
お母さん
・あなたは、子供(Bさんの息子、引きこもり)のことを、誇りに思うべきなのよ!
あなたが「引きこもり=ダメ」と思っているから、子供は自己否定を抜け出せないのよ。
・あなたは、自己中心的よ(そこを認めて、反省しないさい、それがあなたを救うのよ!)
出会うたびに、そんなコトを言われ、
関係性が息苦しいし、会いたくないけど・・・
そういうわけにも、いかない。
どうしたら?
* * * *
この2つのエピソードが僕の元に、同時にやってきて、
僕は、自分の今の課題に気がついた。
それは、「支配的な関係性を抜けること」だ。
Ep2の「お母さん」の、口にしていること、それは全て、「正論」だ。
とっても正しい。そして、「相手のことを、思って」の、アドバイスだ。
しかし、それが相手の尊厳を徹底的に、損なっている。
「正論」は、人を傷つける。
なぜなら、そのメッセージが語られる時、その裏で響いているのは、
「今のあなたは、足りない。だから、正しくありなさい。」
という真意だからだ。
どんなに表面的に良いことを言っていても、
どんなに論理的に正しく、理想的なことを語っていても
「あなたは、ダメ。」
というメッセージが含まれている時、言葉は、人を傷つける。
アドバイスは、ほとんど全て、相手を「思って」のモノだ。
「こう在って欲しい」「失敗して欲しくない」「救いたい」
「自分の経験を役立てて欲しい」、「きっとこれで上手く行く」・・・
だけど、そのアドバイスを「採用」することを、相手に求めた時、
相手がそのアドバイスに従うことを望んだ時、
それは、「支配」に変わってしまう。
僕は、この2つのエピソードを並べて、我が身を省みた。
僕は、正論を語って、多くの人を傷つけてきたな・・・と思う。
哲学を語り、真理を語り、論理を研ぎすまして。
時に、それは、やわらかな外見と、やわらかな物腰に包まれていたけど、
支配とコントロールに他ならなかった。
僕は、人を変えたくて仕方なかった。変わって欲しくて、仕方なかった。
そんなわけで、僕は、自分の目の前の出来事を眺めた。
僕の大切な人が、悩んでいた。
その人は、T字路に居て、右に進もうとしている。
僕は、右に行くと、穴に落ちると思った。その確信があった。
だから、右ではなく、左に行って!!!と思った。
自分が繰り返してきた失敗と同じパターンだと思ったし、
同時に、僕が最も得意とする分析やサポートの領域だった。
だから、アドバイスをしたかった。
「救える」「役に立てる」と思ったし、そうしたかった。
だから僕は、それを矯正しようとした。
もちろん、やわらかな形ではあったけど、
「生き方」を変えるコトを、リクエストした。
エピソード2のお母さんと同じ。
相手を見ていて、歯がゆく感じてしまい、
ちょっとのコトで、解決できる!
自分は助けられる!
そんな風に思って、強引に引っ張ってしまったのだ。
結果、その人は、左に向かった。
その人が、左に行ったのは、僕が右に引っ張ったからに他ならない。
人は、引っ張られると、反発し、逆の方向に舵を切る。
僕は、自分の支配的な行動を通じて、相手を望まぬ方向に進ませてしまったのだ。
もちろん左が正解かも知れない。
でも、僕は「右」という選択肢を、相手から奪ってしまった。
僕は、大いに反省した。そして、改めて、考えた。
人と支援的な関係を、どうやったら作れるのだろう。
迷っている人、苦しいんだ・・と目の前で口にする人、
その人に対して、何ができるのだろう。
コントロールしようとした時、人は、反対の方向にいってしまう。
正論をぶつけた時、相手の人格を損なってしまう。
故に、「相手を支援する」ための第一歩は、
「自分が、自身の課題「相手を変えたいと感じる自分」に向き合うこと」である。
そこから、スタートするしか、ない。
なぜ、変えたいのか。
順番にいこう。
まず、あらためて理解すべきは、
「失敗するのは、善いコト」という事実だろうと思う。
なぜかというと、
「相手を失敗させたくない」という意識は、
「失敗=悪いコト」という観念から、生まれるモノだからだ。
思い出したのは、昔、ある人に着いて仕事をしていた時のこと。
彼は、とてもとても豊かな経験を持ち、優れた洞察を持っていて、
たくさんのアドバイスをくれた。
・須藤君、それをしたら失敗するよ
・それは、必ずやらなくては、いけない
・これを習慣にしなさい
おかげで、僕は、失敗しなかった。
けれど、苦しかった。
僕は、彼から離れ、たくさんの失敗をした。
それを報告すると、「先に相談してくれたら!どうして、相談しないんだ!」と言われた。
でも、僕は、しなかった。なぜなら、失敗が嬉しかったからだ。
どんなに、失敗したって、それは自分が決めた道であれば、後悔はない。
自分が決めて、自分でした失敗なら、必ず、学びがあった。
失敗、それは、失敗ではなかった。
失敗は、他人から見た時にだけ、失敗なのだ。
自分に従った時、人は失敗しない。人が得るのは、「学びと成長の機会」なのだ。
・失敗=学びと成長の機会
改めてこれを、「確信」すること、それを、第一歩として、続けていこう。
「相手が、失敗(ではないけど、コチラからはそう見えること)することを、許すこと」
は、ひとつのキーとなるコンセプトだ。
まず、「思い込み」のレベルでは、ひとつ、進んだ。
しかし、感情のレベルではどうか。
失敗を許すこととは、
「相手が、傷ついたり、苦しんだりすることを、許すこと」
だと言っていい。
僕らは、それが、とっても苦手だ。
僕らは、それに耐えられなくて、その自分の心理的な負荷を軽減するために、
「救済」をしてしまう。
それは、自分の救済であって、相手の救済ではない。
この保身は、多くの場合、うまくいかない。
なぜなら、「傷つき、苦しみ、悩むあなたは、ダメよ、嫌いよ、
目の前に居て欲しくないよ」という
メッセージが、相手に伝わるからだ。
それは、肯定ではなく、否定。
それじゃ、相手を勇気づけ、支えることにはならない。
それを、感情のレベルで許すことだ。
哀しい人を見ると、僕らは、哀しくなる。
ミラーニューロンが、作動して、自分の身体が「哀しい状態」を疑似体験し
自分の「哀しみの記憶、感情体験」のスイッチが入るからだ。
これは、哀しみの伝染・・・ではない。
自分の中に「既に、存在する哀しみ」が、揺り動かされ、表面化するという経験だ。
であるなら、
「相手が、目の前で、傷ついたり、苦しんだりすること」
を許す(その状況を、ストレスに感じない)という状態を作るには、
「自分が、傷ついたり、苦しんだりしたこと」
を許し、癒すことが、必要だということだ。
それが存在する限り、僕らは、「悲しむ人」を前にして、
必ず、「自分の哀しみ」を実感することになる。
そして、それが「嫌」だから、相手を引っ張ってそうさせないように、してしまう。
まず、自分の哀しみを癒すことだ。
感情を癒す。
僕が理解している限りでは、そのプロセスは、わりとシンプルだ。
1.感情に気がつく
2.感情を持つ、自分を許す
3.実際に、その感情を表に出す(再体験する)
4.手放す
感情は、エネルギー。
だから、表に出してしまえば、消えていく。
「基本」だけれど、やっぱり、これをやっていくしかないのかもしれない。その中で、その感情に纏わるエピソードを再体験し、そこから必要な学びを汲み出していく=その体験を終わらせていく・・・。
さて、
自分の感情を癒すことで、
哀しむ人の前に立つ、準備が、整ったとする。
すると、哀しむ人の前に、立つことが、自分に必要なくなって、経験することがなくなるのでは?
という視点もあるけれど、それは、一旦置いておく。
今回のテーマは、「人を、支援する方法」なのだ。
人を支援すること、とは
・相手がいかなる選択をしても、それを肯定すること。
なんじゃないだろうか。
「そんなの、無理!」
という声が、すぐに飛んできそうだ。
「自分が望まない行為、嫌なことをされて、それを肯定なんてできるはずない!」
と言われれば、おっしゃる通り!としか答えられない。
その通り。
自分が望まないことをされたなら、人は「肯定」なんてできない。
しかし、
・相手がいかなる選択をしても、それを肯定すること。
しか、方法論はないのだと、僕は確信している。
ここで、発想を転換する必要がある。
実は、上に書いた僕のエピソードで答えはもう、出ている。
「自分が望まないことを、される」という状況は、
「自分が引っ張ったから」なのだ。
・自分は、左に行って欲しいのに、相手が右に行こうとする
のではなく
・自分が、左に行って欲しいから、相手は右に行こうとする
のだ。
相手の行動が、自分の望まぬモノである時、
それは、自分が、先んじて、相手を支配しているのである。
つまり、
無意識のうちに、自分が引っ張っているから
相手は、反対に向かってしまうのだ。
この自分の「支配」の手綱を緩める時、
相手は、自由に選択をすることが、できる。
すると実は、「支援」というのは、「選択の自由」を与えること、に過ぎないのではないか。
相手が、相手の選択を、完全に自由に、自在にできること、
それを助けること、それが、支援。支援的な関係。
そんな気がしてきた。
ここまでを整理してみる。
◉支援とは、相手に、選択の自由を与えること。
◉選択の自由を与えるためには、引っ張らないこと。
◉引っ張らないためには、引っ張りたい衝動を手放すコト。
◉引っ張りたい衝動を手放すには、
・◯◯が成功、正しい/××は失敗、間違いという観念を、捨てること。
・哀しみや苦しみ(ネガティブな感情)を目の前で展開されることを、許すこと。
◉相手のネガティブな感情を許すためには、自分の中のネガティブな感情を許すこと。
◉自分の中のネガティブな感情を許すには、感情解放のプロセスをやること。
さて。ここまで来ました。
別の降り口もありそうだけど、今回は、こういう構造が見えて来たので
今回の僕のテーマは、ここなんだろうと、思います。
・支援するには、自分を許すこと。
シンプルですけど、そういうことみたいです。
なーるほど。
自分を許すこと・・・それは、自分自身の「弱い部分」に光を当てていくこと。
それは、自分自身が、そんな弱い部分があっても、ちゃんと生きている、という感覚を
得ていくプロセスなんだ・・・そんなことが、見えてきました。
つまり、自分自身の弱い部分を認めていくことで、
等身大の自分自身を信頼していくことができる。
するとその感覚は、相手に投影される。
即ち、「相手が、その弱い部分がありながらも、生きる強い力を持っている」
という「相手への信頼」へと、帰着する。
なるほどなるほど。
これは、良さそう。
さて、次は、そこに、実際に取り組んでみよう。
ここまで、気がつくと、だいぶ、変わっていくはずだけど、
何が、できるかな。
今日は、ここまで。