「無償」で引き受ける仕事、
これほどに、難しいものはありません。
「無償」とは、多くの場合、「無料」を意味します。
お金をもらわずに、何かをする。
しかし、「お金」は、もらっていなくとも、
必ず、僕らは、対価を受け取っています。
例えば、学び。
無償で、ロックスターのステージを手伝う・・・と、
きっと、普通に生きていると見えない風景を見せてもらうことになる。
それだけで、大きなリターン=対価を得ているわけです。
「恩」という名の対価を得る事もあります。
「無償で、手伝ってあげた」・・・から、次は手伝ってもらう、
何かの便宜をはかってもらう 等々。
恩を「売る」という表現があるくらいですからね・・・
感情的な対価を得る場合もあります。
「ありがとう、本当に助かった!」
そう言ってもらえると、我々は、満足感、幸福感を、感じます。
これも、「与えられる」という体験ですから、存分に対価を得ていることになる。
もし、感謝をされなくても、
「自分が、無償で、社会のために労働をしている」という実感自体が、
高揚感、自己肯定感等をもたらすことがあります。これも、ひとつの「対価」です。
僕らは、「お金」の場合も、それ以外の場合も、
必ず「対価」を得るのです。
むしろ、「お金」を介さない方が、大きな対価を得るケースも多い。
しかし、この「対価」が、見合う・・・と感じないとき、
僕らは、必ず、ある一言を口にします。ほとんど、全員同じ。
それは「やってあげているのに・・・」です。
一方的に、自分が差し出していて、それに、見合う何かが還ってこない!
そう感じると、僕らは、「不満」を持つのです。
「無償」で何かをする。
はじまりは、とても、美しい。
でも、多くのケースで、それは、「不満発生装置」へと変わってしまう。
まさに、win winのはずが、lose lose・・・
頼まれた側は、
「こんなことなら、引き受けなきゃ良かった・・・」
頼んだ側も、
「・・・やりたくないのなら、なんでこの人「やる」っていったんだろう。
こんなことなら、お金を払って、プロにお願いすればよかった」
アンハッピー極まりない事態です。
では、こうならないために、どうすれば良いのでしょう。
とても、良いテストがあります。
それは、
「自分は、それを、お金を払ってでも、やりたいだろうか?」
と問うのです。
例えば、
・自分が大好きなアイドルの笑顔を撮影する仕事。0円!
・自分が大好きなアーティストの1日制作アシスタント。
・有名紙で、自分のエッセーを掲載。
やるやる!!
お金払ってでも、やる!って人、多数なはずです。
それくらいのことなら、「無償」で引き受ける。
でも、そうでないのなら、
「適正な対価」をちゃんと、求めた方がいい。
それが、必ずしも、「お金」である必要はない。
でも、はじめに「相応の対価」を相互で確認しておくのです。
それは、自分が責任をもった仕事として取り組むという覚悟のために
必要なことなのです。
対価を支払うこと、対価を受け取ること。
それは、コミュニケーションです。
対価の授受とは、お互いが、「交換のプロセス」を成立させる宣言であり、
その対等なるプレイヤー(=自分の意思でそこに参加した人)である宣言です。
その「宣言」として、
「お金」は、今のところ、とてもシンプルで、わかりやすい。
互いに、責任をもって、「交換」をはじめましょう!
始めたからには、最善を尽くしましょう!
そう宣言して、始めるとき、僕らは「プロ」として振る舞うことになります。
お金をもらうこと=仕事として引き受けること・・・は、
自分のためだけでなく、相手のためでもある。
そこに、生産的な関係を築くための、ひとつの方法論なんです。
さて、先ほど出てきた、
「お金を払ってでもやりたいこと」
・・・自分だったら、どんなことでしょう。
想像してみてください。
* * *
想像しましたか?
* * *
それ、たぶん、あなたの天職(に近いもの)です。
「お金を払ってでもやりたいことを、お金をもらってやっている。」
この感覚は、
業界のトッププレイヤーたちが共通して持っているモノだと
僕は思っています。
トッププレイヤーでなくとも、
幸せに仕事をしている人・・・は、きっとそう。
(完全に・・・とは、言えなくともね)
ザッポスの、トニー=シェイが
「10年間無償でも続けられることを、仕事にしなさい」
と言っていますけど、
それくらいの好きな事に取り組めたら、
きっと僕らは、とんでもない情熱で、それに向き合い、
気がつくと、それで食べられるようになってしまうんです。
もちろん、その前提として
「好きなことをしても、生きていけない」
とか
「仕事は、大変なものだ」
という思い込み・・・を解除していく必要はあります。
また、
「そんな好きな仕事につくなんて、才能がある人間だけだ」
とか
「現実は、もっと厳しい」
という、常識(= 最も簡単に、自分をごまかすツール)も、
捨ててしまうことです。
僕らは、「信じていることを、経験する」だけです。
自分を信じることから、はじめよう。
え?
信じられない?
あなたは「自分が、才能がない」ということを、”確信”しているわけです。
そう、大丈夫。その「強い確信」の力を、
別の真実に対して使えばいいだけ。
才能とは、まったく主観的なもの。
あなた以外に、あなたを出来る人は、いません。
それが、才能の本質です。
才能とは、自分というユニークネスを、ただ認めること!
お金を払ってでもやりたいことを、お金をもらってやりましょう。
そんな生き方があります。
そこに、一緒に行きましょう!!
え?
信じられない?
あなたは「自分が、才能がない」ということを、”確信”しているわけです。
そう、大丈夫。その「強い確信」の力を、
別の真実に対して使えばいいだけ。
才能とは、まったく主観的なもの。
あなた以外に、あなたを出来る人は、いません。
それが、才能の本質です。
才能とは、自分というユニークネスを、ただ認めること!
お金を払ってでもやりたいことを、お金をもらってやりましょう。
そんな生き方があります。
そこに、一緒に行きましょう!!