わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
(注文の多い料理店序文:宮澤賢治)
1年ほど前、僕はブログを、この文章から開始しました。
改めて、僕は、ここに戻りたいと思います。
幸せって何だろう。
豊かさって何だろう。
そう問いかける時、僕は、宮沢賢治のこの言葉を思います。
たくさんの選択肢があって、
たくさんのモノを持ち、たくさんの関係性を持つこと、
それは、本当に、僕らの生活を美しいモノに、
満ち足りたモノにしてくれるのだろうか。
たくさんのカバン、たくさんの靴、たくさんの洋服と
たくさんの友達、たくさんの予定と、たくさんの本
たくさんのアカウントと、たくさんのアドレス、
たくさんの曲とたくさんの写真・・・
僕は、やっぱり、そうではないと思うのです。
モノというのは、必ず、置き場所を必要とし、
整理したり、維持したり、修繕したりする時間を必要とし、
また、なくなれば、探す労力と感情的なコスト
・・・イライラ、心配、不安・・・を要求する。
(モノってのは、本当に良く、消えてくれますよね・・・今、必要!って時に)
「モノ」はある分だけ、「手間」が懸かるのです。
もし、そもそも、それがなければ、
整理も維持も修繕も、探すことも、なくすことも、必要がなかった。
その時間は、その労力は、
自分を見つめ、大切な人と語らい、社会に奉仕するために、
使われたかも知れません。
僕らは、「たくさんの”モノ”」に、
「自分の魂を磨く時間※」を奪われているのかも知れません。
※サティシュ=クマール
一概には言えないと思いますが、
・豊かさは、持ち物や選択肢の数、意識を向ける対象の数と反比例する
僕は、そんな気がしています。
きっと、僕らは、自分が思っているより、
ずっと小さなセカイで、満ち足りることができます。
ずっと、ささやかなる出来事に、
大きな学びを見つけることができる動物なのだと思うのです。
僕が、豊かさや幸せと無関係だと思う、もう一つのコトは
「欲しい物を、手に入れる」ということです。
端的に言うなら、欲望の実現と、幸せは関係がない。
なぜなら、幸せとは、今目の前にあるモノに足る・・・という態度から、
生まれる感覚だからです。
だから、欲しいものが多いほど、僕らは幸せから遠ざかる。
もう何もいらないな・・・そう感じる時に、僕らは幸せを感じている。
頬を抜けていく風と、あたたかな日の光、
その、いつだって存在しているモノ、万人に与えられているモノ、
そこに足る時、僕らは、幸せを手に入れる。
豊かさと幸せを手にするために必要なことは、
豊かさの条件、幸せの条件を、捨ててしまうことです。
それは、「今、この瞬間に足る」ということ。
言うは、易し・・・かも知れません。
しかし、僕らが満ち足りている瞬間、
幸せを感じている瞬間、豊かさを味わう瞬間とは
必ず、「その瞬間に、足りている」という瞬間です。
それは、大げさなモノでなく、
きっと、いつもそこにあったモノのかけがえなさに気がつく・・・
そんな瞬間なのだと思います。
しかし、いつもそこに在るからこそ、気がつけなくて、忘れてしまう。
きれいにすきとおった風を、 桃いろのうつくしい朝の日光を、
いつだって感じて生きていけたらいいな。
それを感じる自分は、きっといつだって、裸の自分。
シンプルで、やわらかな、ありのままの自分です。
本当に大切なモノ、本当に大切な人、本当に大切なコトに
自分の命を使おうと決めた時、きっと僕らは減らしはじめる。
そして、本当に必要なモノだけが残るのだと思います。
あなたの、本当に大切なモノは何ですか?
本当に大切な人は誰ですか?
本当に大切なコトは何ですか?
それは、もうそこにあります。
きっと、僕らは、もう、それを手にしている。
今、自分に必要なモノは、もう目の前にある。
だから、そこにフォーカスすればいい。
それは意志の領域。
さてさて、
そんな僕は、管理すべきメールアドレスが、10個・・・
まさに、維持と管理の整理に甚大なるコストをかけています。
捨てることから、はじめよう。
捨てるほどに、僕らは、軽くなり、自由を手にしていくのですから。