愛とは、人生とは、友情とは?
それらについて、この世界には、たくさんの定義があり、たくさんの意見があり、
たくさんの解釈があります。
でも、ぼんやりと、常識的な、一般的な定義がされている。
だから、僕らは、「愛してる」と口にすることで、
自分の気持ちを伝えるコトができます。
言葉にするコトは、自分の気持ちに「輪郭」を与えることです。
ぼやーっとしている感覚・・・
あなたと一緒にいると、うれしいな、見ていたいな
いつも元気でいて欲しいな・・・あなたにとって特別でありたいな・・・
・・・そうか、これが「愛」なんだ!
そんな具合に。
しかし、自分の「ぼやーっとした気持ち」を、「愛」という言葉で表現した時、
「愛」という一般名詞に入りきらないモノは、捨てられてしまう。
そして、その一般名詞という「入れ物」に入りきらない部分は、
そのうち、あったことすら忘れられてしまう。
でも、その溢れてしまった部分、一般的な愛や友情の定義に、
入り切らない部分が最も大切なモノなんですよね。
それが、「あなたの愛」だし、「わたしの友情」。
(そう、僕らは、それを「愛」「友情」という一般名詞を使ってしか、語るコトすらできないんです!)
だから、本当は、それを名付けることはできません。
名付けた瞬間に、それは、もう、何かを失っているんです。
だから名付けるな・・・というわけではありません。
名付けないと、僕らは、会話すらできないのですから。
だから、「本当は、名付けられないのだ」というコト、
そこに入りきらないモノが、存在していて、それが大切だと言うコト、
それを、覚えておくことが、大切だということです。
しかし、僕らは、自分の人生を、一般名詞で語ることに、あまりに慣れてしまっています。
例えば、自分や相手を「母」「子供」「夫」という一般名詞で語ったり、
カウンセラー、ビジネスマン、役員、先輩、八百屋、受験生・・・と語ったり、
真面目な人、明るい人、努力家、運動音痴・・・と定義したり。
無意識に、そうやって、「何か=一般名詞=誰かが決めた定義」に当てはめてしまう。
そんな一般名詞に入りきらないモノが、自分や相手の個性なのに
一般名詞に自分を囲い込み、そこから溢れた部分を捨て去って、忘れてしまう。
そして、その「囲い」と、「本当の自分の広がり」のギャップがあることが
見えなくなってしまう。
「囲い」を優先し、自分を押し込めてしまう。
それが、「困難」と呼ばれるモノの、ほとんど全てです。
困難とは、自分を一般名詞に囲い込むコトの別名です。
自分が定義した、自分があるべき状態の名称に、囲い込まれること。
挑戦者、経営者、男、社会人、上司、部下・・・その中に入り込もうとする時、
僕らは、感じる感覚を、「困難」と呼ぶのです。
あらゆる「問題」、「誤解」、「見落とし」の根幹には、
この一般名詞の罠が潜んでいます。
例えば、カウンセラーが、いわゆる「ある婚姻関係にある男女が抱えるテーマ」を、
「夫婦関係の問題」として扱った時に、一番重要なところが、見えなくなります。
「夫婦」とか「関係」とか「問題」という一般名詞に入り切らない部分こそが、
その2人に特有の、その2人だからこそ、向き合う、運命的、必然的なテーマの源泉なのです。
(もちろん、「婚姻関係」とか「男女」というのも、一般化なので・・・難しい所です)
もちろん、多くのケースに共通する部分はあるし、
「みんな、同じ」 という一言が、一時的な安心をくれるのも確かです。
でも、それをしている限り、「本当の問題」は見過ごされ続けるコトになります。
解決の鍵は、常に、「一般名詞に入りきらない部分」にあります。
それは、「捨てられてしまった部分、溢れてしまった部分」にある。
だから、大切なのは、そこに入りきらないモノ、
一般名詞に入りきらないモノを、大切にすることです。
そして、自分自身を、一般名詞に押し込まないこと!
僕は僕、あなたはあなた、君は君なんです。
誰かの定義した名詞を生きるコトは、誰かの定義した人生を生きるコトです。
僕らには、自らの在り方を、自らの生き方を、自ら決めていく自由がある。
固有名詞を生きましょう。
他の誰のモノでもない、他の誰のモノとも似ていない、
自分の固有の人生を生きているんですから!