期待は自分の中にある | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

昔、あるプロジェクトに参加していた時のこと。
僕は、なんだか憂鬱な気分だった。

やりがいのあるプロジェクト、いいチームメンバー、自由な雰囲気。
僕の役割は、得意のコンセプト設計、戦略の策定、運営業務の設計。

しかし、作業は進まない。時間も取れないし、アイデアも出てこない。
そして、時間とともに、迷いが大きくなってくる。
それは、「本当に、この事業に、自分は関わっていくべきだろうか」

僕は、迷いのまま、プロジェクトのトップに相談した。
「本当に、このプロジェクトに、関わっていくべきか、迷っている」
しばらく、聞いていた、トップは不思議そうに、こう口にした。
「・・・僕は、君に「企画」をお願いしているんだけど、それは、やりたいんじゃなかった?」

僕は、応えた。「はい、それは、面白いと思っていて・・・」
そこで気がついた・・・僕は、「運営」をやりたくないのだ。
毎日、営業所でルーティンワーク・・・を恐れているのだ。
だから、そう伝えた。「僕は、・・・正直なところ、運営はやりたくないんです。」

トップは、笑いながらこう応えた。
「君に期待しているのは、航海士の役割だ。料理人じゃない」
(※ この会話は、ワンピースについて、話をした直後だった)

わーお・・・そういうこと?状況は、こんな感じだ。

航海士:悩んでいる
キャプテン:どうした?
航海士:船を降りたい
キャプテン:どうして?
航海士:料理はできないんです。だから船を降りたい
キャプテン:・・・いや、「海図」を描いて欲しいんですけど・・・

・・・あらららら・・・これ、だいぶ恥ずかしい話なんじゃないですか・・・

僕が、感じていた「期待」は、存在すらしていなかったのだ。
勝手に「自分に対する、期待」を創り出して、それに悩んでいたのだ。
そして、「その期待に応えられない可能性」に心囚われ、
自分の作業が進まないように、していたのだ。


実は、「期待」というのは、多くの場合、「自分の想像上の産物」である。
多くの場合、そんな「期待」は、そもそも、存在すらしていない。

しかし、勝手に「期待されている」と思い込み、
その領域(今回であれば、運営)に、取り組み始める。
すると、周囲は、「須藤くん、運営やりたいんだー」と思う。
だから、「じゃあ、やってもらおう、任せよう」という話が生まれる。
そしてまさに「期待通り」僕は、運営をやるコトになる。

順序は、
① 期待されていると、本人が(勝手に)感じる
② 必死で、期待に応えようと頑張る
② 周りが、期待する

期待とは、「自分の中」に生まれるモノなのだ。
自分が、自分の中に、創造するモノなのだ。

だから、期待をプレッシャーに感じたら、
その期待は、自分が、勝手に創り出しているモノではないかと、疑ってみよう。
特に期待なんてされてないことが、ほとんど。

だから、肩の力を抜いて、期待なんて忘れてしまおう。
等身大の自分が、評価されたら、儲けもん。
それくらいの、ゆるさが、ちょうどいい。