以前の「書き物」を見つけたら、なかなか面白かった。
今の感覚とはズレてもいるけど、せっかく書いたからもったいない。
ということで、今の自分の立場からの分析を最後に添付して、アップしてみることに。
2011年12月8日:奇跡と運命の到来
むかーしむかし、知人に魅力的な投資の話を持ちかけられたことがある。
僕は、自分の生活に、降ってわいた「チャンス」に、大いに右往左往した。
ここから、華々しい生活が幕を開けるのではないか?
明日になれば別の誰かがそのチケットを手に入れてしまうのではないか?
結局、その話に乗ることはなかったが、一晩、なんだか気が高ぶって、良く眠れなかったのだ。
その後の話は知らないが、もし知人の話通りの結果が実現されていたら、
これは「降ってわいた幸運」と呼ぶに相応しい出来事だったろう。
僕らは、それを、「奇跡」とか「運命」とか名付ける。
僕らの人生は確かに、運命的な出会いや、奇跡的な選択によって彩られ、輝きを増す。
しかし、「奇跡」や「運命」は、とんでもない災難をもたらすこともある。
道ばたで不意に100万円を渡されたら、誰でも警戒するだろう。
そんなに「上手い話」がないことを経験的に知っているからだ。
しかし、時に私たちは、そんな話をいとも簡単に掴まされてしまう。
未公開株に手を出し、バブルマネーに踊り、天国への免罪符を買ってしまう。
なぜ、私たちはそんな話を信じてしまうのか?
そもそも「奇跡」とは何だろうか。
「通常起こりえないことが、起こること」である。
では、「運命」は?
「あらかじめ、そうなることが、決まっていること」とでも、なるか。
異なる広がりを持つ言葉だけども、双方ともに共通しているのは、
「自然の状態では、通常起こりえない、出来事が起きた」という認識だろう。
・・・運命の恋、奇跡的な出会い、運命のいたずら、奇跡の生還・・・
ポイントは、僕らが、この言葉を発するためには、
「現状」は、奇跡的・運命的でないコトを認める必要があるという点だ。
現状=通常。だから、その中では起こりえないモノ=奇跡・運命がある。
とすると、現状とは、奇跡的でも運命的でもないモノ・・・とするしかない。
論理の経済が、そうさせる。これは、別に、悪いコトでも、なんでもない。
しかし、「奇跡を待望する・運命を待ちこがれる」という在り方は
度を超えると、現状の否定へとつながっていく。
「奇跡の出会い、運命の場所・・・」こそが、自分の正しい人生・・・
そう感じ始めると、「現在の私」は、奇跡的でも運命的でもない場所に居て、
取るに足らない「日常」を生きているコトになる。
そして、そのつまらない現実は、さらに夢想的な奇跡の待望へと誘うのである。
この夢想がベースにしているのは、「本当はそこにいるべき私」という物語である。
私には、もっと素晴らしい場所があり、ふさわしい環境があるはずだ・・・
なぜなら、ここは私にふさわしくないから。
白馬の王子を待望できるのは、周囲に白馬の王子が不在だという確信である。
ヘッドハンティングを待つのは、今の職場が「私には似つかわしくない場所だ」という認識である。
そして、「運命の場所」に招待されるだけの、レベルに私はあるのに、
報われないのは、周りが悪い!・・・と物語は続いていく。
すると、どんどん居心地は悪くなり、自分と現実のフィット感は薄れていく・・・
すると、さらに、奇跡を求めて・・・まさしく、悪循環の開始である。
さて、この「奇跡と運命の落とし穴」にはまらない為には、どうすれば良いのか。
それは、「奇跡と運命を、今、生きること」だ。
多くの成功者の人生は、僕らから眺めると、奇跡に満ちている。
しかし、本人達は、「必然的」としか、感じていないだろう。
なぜなら、それは、彼らの想像した通りに、モノが進んだということだからだ。
それは、奇跡でも運命でもなく、「想像し、実現した」というプロセスだ。
準備ができている人間 にとって、
それは奇跡でも運命でもなく訪れるべくして訪れた、適切な現実に他ならないのである。
つまりは、今、目の前の現実=自分が作り出しているモノ を、信じること。
自分の歩くペース、自分の見える世界、自分が判断できる範囲、自分の声が届く範囲
その中で生きる”勇気”を持つこと。そこに、全てが揃っていることを信じること。
それは、既に、充分奇跡的で、運命的なセカイなのだ。
通常の日々・・・など、存在しない。
人間は、想像した通りのモノを実現する。
想像してもいないモノが立ち現れる時、それは準備ができていないのだ。
過剰なモノは、印を残していく。
「想像」を、過剰に生成する。(話を持ちかけられた、僕の様に!)
それが「過剰なモノ」の混入したサインである。
なぜなら、自分自身が、想像したことのないモノ混入したが故に、
想像力が現実にキャッチアップしようとフル回転するからである。
想像したことがないもの=欲望していないもの=その準備をしていないもの である。
それは、自分自身が望んでいるモノでも、自分自身が向かうべき場所でもない。
準備が出来ている人間にだけ、チャンスが訪れる。
だから、想像せよ。準備せよ。欲望せよ。
それが、一番早く、僕らを、奇跡的な場所へ連れて行ってくれる。
もちろん、ナチュラルにね。
◉分析(カウンセラー:2013年の自分→クライアント:2011年の自分)
自分の毎日に疑問を感じていた頃の文章。
奇跡や運命によって、急に日常が切り開かれる・・そんな夢想をしていた自分に
「活!」をいれつつ、「目の前の現実にこそ成長と変化の機会がある」と、
メッセージを送っている。
自分で自分の生を、コントロールしようという部分も顕在化していて、
「理解できるモノ」への執着と、「理解できないモノ」への恐れも見え隠れしている。
特に、後半ね・・かわいいね。
人生をコントロールしたいのは、コントロールできないと、怖いから。
それは、「自分自身への信頼の欠如」から生まれる症状だ。
最近、僕はもう一度、その辺りにフォーカスをしている。
そこを解決しとかないと、もう一歩先へは進めないのだ!!
最後に、今の僕から、補足。
◉補足
「ここは、今、自分が、いるべき場所じゃないのではないか」という感覚は
とても、重要なモノです。それは、「逃避」ではありません。
確かに、実感として、「不調和なモノ」を感じているんですから。
その時に、「場所を変える」という選択肢だってあるわけです。
しかし、重要なのは、「目の前の現実は、等身大の自分を映し出しているに過ぎない」
というトコロです。その中で、学べるテーマがなくなれば、
勝手に、次の場所へシフトしていくことなるでしょう。
それは、奇跡的にではなく、とてもナチュラルに。
現実が変わらないのなら、まだ自分が、その現実の中で
「学び終えていないテーマ」があるということです。
現実は、自分が作りだした、自分専用のリアリティです。
(映画マトリックスのカンフーのトレーニングシーンを思い出してください)
現実とは、必要に応じて、自分が自分に与えているモノです。
だから、必要性がなくなれば、他のリアリティの現場へと、
足を進めることになります。
「学ぶ必要がある」、これだけが、僕らのリアリティを決めます。
だから、「今・ここ」に眼を凝らしてください。
そこにフォーカスし、必要なテーマを見つけ、学ぶコトによってのみ
現実は、自分のリアリティは、劇的に変わって行くのです。