ヴィパッサナー瞑想 ワークショップの備忘録 | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

ヴィパッサナー瞑想ワークショップに参加。
BMS R-Lab主催、講師:地橋秀雄先生。非常に面白かったので、備忘を兼ねて
思ったことを書いておく。
(あくまで、須藤が勝手に書いてるので、先生のお話とは、無関係なコトがほとんどです)

「ヴィパッサナー瞑想」というのは、古代仏教において、釈迦が悟りに至った瞑想の方法。
「”今・ここ”の瞬間に意識を集中する」、「今・ここの自分」に気づいていくコトを目指す瞑想。
この「気づき」をサティと呼ぶ。
(ヴィパッサナー瞑想という言葉は、色々な瞑想を含む広い概念としても使われることがある・・・らしいので
以下、サティ瞑想と勝手に表記する)

瞑想は、この「サティ瞑想 系」と「サマタ瞑想 系」に別れるらしい。
・サマタ瞑想=意識を集中し、心を無の状態(サマーディ)にする。
・サティ瞑想=「今・ここ」の実感に意識を向け、随観(自己認識)する。
僕が今まで、時折やってたのは、サマタ瞑想らしい
・・・θ波状態での変成意識体験とかは、こっち。


◉サティ瞑想の目的
サティ瞑想の目的は、
「実感している事実体験に、徹底的に意識をフォーカスすることで、
『思い込み』によって生まれる、『様々な臆見・誤解』から自分を解放する」
というコト。
(もちろん、さらにその先は、あるんだろうけど、まずは、”このレベル”だろう)

前提になっている考え方は、
僕らは、「観念世界」と「現実世界」の2つの世界に生きているという世界観である。
この2つを実感するワークを体験。

実際に握りこぶしで、頭を叩いてみる。
痛い・・・この「実感」を伴った世界が、「現実世界」。

次に、握りこぶしで、頭を叩くイメージをしてみる。
・・・実際に、痛みはなく、そこにあるのは、「想像」に過ぎない。
この「実感」を伴わない世界が、「観念世界」

わかりやすいネ!!

(この二元論自体は、珍しくない。東西を問わず、常に思索の前提となり、
 また、対象となってきた、人間の意識構造についての理論である)

今回の「サティ瞑想」は、この両者、
即ち「現実世界」と「観念世界」の混在(”無明”の状態)を、
選り分けるコトを目的とする。
つまり、「事実」と「推測」を、しっかりと識別する力をつける方法論なわけです。
なぜ、そんなコトが、必要なの?


◉サティ瞑想の必要性
僕らは、普段、この両者を混在させている。
例えば、僕がよく使う例が、救急車の例。

「部屋の外を、救急車が通った」という状況を考えてみよう。
実は、この状況は、「事実」と「推測」が混ざっている。

事実:ピーポーピーポーという音がなっていた。
知識:ピーポーピーポーと鳴らして走るのは、救急車である。
推測:救急車が通ったのだろう。

僕らは、勝手に、自分の「知識(記憶のデータベース)」から
状況を推測し、頭の中に、イメージを描き出す。
でも、本当は「映画のロケ」のためのCD音源かも知れない・・・でしょ?
救急車ならいいけど、僕らの幸せな生活に、致命的に重要なレベルでこそ
「事実」と「推測」が混在しているのだ。

例えば、
・恋人が浮気をしている
・相手を怒らせてしまった
・裏切ったと思われて、悔しい・・
でも、それ「事実?」・・・僕らは、どこかで、絶対に「推測」を入れている。
そして、ほとんど全ての混乱と、諍いと、苦しみは、
この「推測の領域」から、始まるのだ。

思い返してみて欲しい。
僕らが怒るのは「自分が、誤解された時」だったり、
「自分の真意が、伝わっていないと感じた時」
そして、「ホントのことがわからない時」でしょ?
相手だってそう。

だから、「推測」から、自分を解放することが、
僕らが、生きる上で、死活的に重要になる
・・・というヴィパーサナの考え方は、大いに実感できるところだ。
自分が「事実」に、無意識に「意味」を与え、
それに一喜一憂する生き方から離れること。
そこから、「囚われない生き方」は始発する。

◉サティ瞑想の方法論
では、やり方。
・動作や、心の動きを意識化し、ラベリング(言語化するコト)し、解放する。
やり方は、かなりシンプル。

自分の動作を、分割し、そこに意識を集中する。
そして、「自分は今、◯◯をしていた、思っていた、感じていた」と
「過去形」で、言葉にしていく。
ここ、「面白い!」と思ったポイント。

過去形で、状況を、解説する・・・なぜ、過去形?
過去形というのは、「今、ここから、観察する自分が距離をとること」なくして、
成立しない語法だからだ。英文法には、まだその名残がある。

過去形は、「過去のコト」を記述する時に使用するのは、当たり前。
しかし、同じく「過去形」を使う場面がある。
それは、if I were a bird・・・でおなじみ「仮定法」。
なぜ、過去形?
それは、「目の前の世界から、離れた、別の世界の話」だからだ。
「過去形」とは、自分が、目の前の現実に「没入していない場所に、視点を置いていること」を

閑話休題。
ワークショップでは、「歩く瞑想」と「座っての瞑想」を実施。
歩く瞑想では、「歩く」という動作を、左足を上げて、着地し、右足を上げて・・・と
分割し、「感覚」→「ラベリング(言葉にする)」する。
その中で、意識がいろいろ移ろう・・部屋の外の音、隣の人の姿、妄想・・・
それを、「音を聞いた」、「人を意識した」、「◯◯を考えた」と、
認識していく。この感覚→ラベリングを、「サティしていく」と呼ぶらしい・・・

座っていても同じ。呼吸で膨らんだり、へこんだりする、お腹に意識を集中。
足がいたくなったり、背中がつっぱたりしても、それを「サティ」していく。

ここで、どんなに、心がいろんなコトを感じたり、思ったり、揺れていても
それを、全てサティすれば、無問題。
100回揺れても、100回それに気がつき、ラベリングし、
「自分は、◯◯を感じたな」とサティすれば、OK。

面白いコトに、正しく状況をサティすると、その痛みや違和感は消える。
ワークショップでは、それを、実感することができたのが、嬉しかった!

◉サティ瞑想の有用性
サティ瞑想は、それ自体で、ひとつの大きな力を持つ方法論だろう。
それだけでも、日常は変化していくこと、間違いなし。
しかし、役割を明確化することもできる。

例えば、僕は、自分のカウンセリングセッションに、
トレーニング方法として、そのまま代入できる。

カウンセリングセッションでは、
「クライアントさんの感じている問題や置かれている状況について
『事実』と『推測』を分割し、『推測』の『前提』を探り出す」
という方法をとることがある。

例えば、
・相手の期待に応えなくてはならないプレッシャーで、ストレスを感じている。
という「問題」を抱えている場合、
・相手の期待に応えるためには、自分が我慢をしなくてはならない
・自分が自由に行動すると、相手の期待を裏切ってしまう
といった、観念を、無意識に持っている(あくまで、例)。

もちろん、この観念は、「事実」ではなく、「推測=思い込み」である。
つまり「観念世界」の話。これを、「思い込み」だと気付いてもらい
その「思い込み」を解消するアプローチ行っていくのだ。

僕は、このアプローチを、自分で出来る様になる方法 を
レクチャーしているわけだけども、
これを、自分で行うためには、「事実」と「推測=自分の思い込み」の分離を
トレーニングによって、身につける必要がある。

この基本トレーニングとして、サティ瞑想は、非常に有用性が高い。
徹底的に、「事実」と「推測」を、分離していくわけだからね。

いや、学問、ビジネス、生活・・・全ての人間活動の現場において、
「新しい発見」とは、自分の「推測」、「臆見」、「気がつかずに持っている常識」を、
超越することによってのみ生まれる。
とするなら、サティ瞑想の有用範囲は、巨大である!


◉最後に
西洋哲学を少し、ご存知の方は、
サティ瞑想の考え方や、世界観、そして目指したモノが
フッサールが構築を目指した、「人間の「認識」を巡る、基本原理」についての
徹底した「内的実現」として読むと、その存在意義がより明らかになる。

改めて、東洋的な方法論だからこそ、辿り着くことができた
知へのアプローチに、胸が躍ってしまった!!