先日、知人女性に「良い結婚相手に巡り会えない!どうして?」
と聞かれた。
それで、まずは「良い相手」について、聞いてみた。
・それなりの安定した収入
・価値観の一致
・変な趣味を持ってない
・自分が働くことを理解してくれる
・子供も欲しい
・長男はヤダ
・血液型B型はなし・・・・ 等々
彼女が譲れない要素、これらは、「条件」というやつだ。
大きく捉えれば、
「彼女が、幸せになるために、必要な条件」
である。
これが揃えば幸せ。
揃わなければ、不幸せ。
でも、幸せってそんなモノなんだろうか。
自分のいる場所や相手によって、幸せだったり、不幸せだったりする
・・・それじゃギャンブルみたいなものだ。
自分の幸せを決定する要因が、「自分以外」では、
誰が人生の主人なのか、わからない。
じゃあ、幸せってなんだろう。
幸せとは、つまるところ、心の「中」の「幸福感(幸せな”感じ”)」のことだ。
そして、いかなる状況で、この「幸福感」を感じるのかは、まったく個人的なものである。
ある人にとっての「天国」が、ある人にとっての「地獄」なんて、よくある。
例えば、「いつも、誰かが助けてくれる環境」は、
ある人にとっては「幸せ」だけど、ある人にとっては「不幸せ」だ。
「それじゃあ成長できない」・・・なんてね!
だから、万人にとっての、幸せな状況なんて存在しない。
だから、「幸せの条件」というのは、
「自分の心に、幸福感を生み出すのに必要な、”自分にとって”必要な条件」のことだ。
そして、ものすごく重要なとこなんだけど、
この条件は、「自分で決めたモノ」なのだ。
心の中に、「こういう状況なら幸せ!」と決めたルールブックがあるのだ。
・お金がある=幸せ/人が去っていく=不幸せ/結婚をする=幸せ・・・
そして、このルールブックは、合理的でも、普遍的でもない。
自分が採用した、ひとつのアイデアでしかない。
例えば、7がつくと、なんか幸せ・・・
出席番号7番、受付番号7番、くじ引きで7番・・・なんか嬉しい。
でも、そこには、合理的な理由がないことは誰もが知っている
つまり、「7=幸せ」 と、自分のルールブックに書いていたから
幸福感を自分に与えたに過ぎない。
「お金がある=幸せ」というのも、構造はまったく一緒だ。
だって、色々買わなくてはいけないし、安定した生活と、子育てには必須だし・・・
Yes Yes Yes!!
だけど、全ては、「それが、お金でしか手に入らない」という
自分の信念を、普遍的な事実に読み替えているに過ぎないのだ。
むしろお金がなかったから、近所で助け合って、毎日愉しくやってた
・・・という時代を僕らは知っているのだから。
だから、僕らの感じる幸せと不幸せ、つまり「幸福感」と「不幸感(?)」とは、
・自分がつくったルールに合致している=幸せ
・自分がつくったルールに合致していない=不幸せ
という、心の中の「システム」が運用された結果に過ぎない。
「お金がある=幸せ」というルールがあれば、お金がある状況を幸せと感じる。
「お金がある=不幸せ」というルールがあれば、不幸せと感じる。
「お金がない=幸せ」というルールがあれば、お金がないのは、幸せだ!!
・・・すると、自分の「幸せ」は、置かれている環境や、一緒にいる相手、
つまり自分の「外側の話」とは、根本的に、無関係だということが見えてくる。
「幸せ」は、自分の決めたルールと、自分の達成度合いという、
完全に「内なる事情」によって決まっているのだ。
では、なんでそんな面倒なことをしているのか。
単純に、「全て=幸せ」としてしまって、「いつだって幸せ」で良いのではないか?
つまり、
A:条件(ルール)を決めて、それをクリアした場合に、自分に幸せを与える
B:条件(ルール)を決めずに、いつでも自分に幸せを与える
(=全ての条件を、「幸せ」とすると、もはや、条件ではない)
というのは、同じ動作に過ぎない。
同じ労力であり、同じ仕組みであり、どっちを選択しても生きられる
どちらでも良いのに、なぜ、(僕を含めて)多くの人が、Aを選んでしまうのか?
Bを選んでおけば、いつだって、どんな場所にいたって、誰と一緒にいたって
「幸せ」でいることができる。
それなのに、なぜ、自ら率先して「幸せを得ることに、条件をつけてしまう」のだろう。
達成感!
うん、それも悪くない答えだ。
だけど、達成感だって、自分のルールの「決め」による産物だ。
年収1000万だ!!・・・いやいや、ゴーン社長は1億円だから・・・
東大に受かった!・・・いやいや、時代はハーバード大学・・・
達成というのは、「自分の”決めた”目標」の達成以上でも以下でもない。
小さなことにも、達成感を重ねていける人もいる。
どんなに大きなことを実現しても心が満たされない人もいる。
すると、問題は「幸福感」として話をしていたのと全く同じ場所に戻ってきてしまう。
実は、
「条件を決めて、それをクリアした場合に、幸せを自分に与える」というのは
「無条件の幸せを自分に許可しないという」ということの、
裏返しなのだと考えると、話は見えてくる。
逆説的だけど、僕らが幸せでないのは、幸せを自分に許可していないからだ。
・僕らは、幸せになりたくないから、幸せじゃない
ということだ。それは、可否(できる・できない)の問題ではなく、
要否(やる・やらない)の問題なのだ。
僕らは、「自分が無根拠に、無意味に、無条件に幸せであること」を恐れている。
だから、幸せに条件をつけるのは、クリアするためではない。クリアしないためである。
つまり、「僕らは、自分の幸せを実現しないために、幸せを得ることに、条件を作っている」のだ。
(誰しも、条件をクリアすると、また次の条件を叶えたくなる自分を知っているでしょ?
まるで、自分に「幸せ」を与えたくないかのように・・・)
では、僕らは、なぜ、「自分の幸せを、実現しないこと」を望むのか。
それは、「自分自身が、幸せに相応しい価値のある人間だ」と思っていないからだ。
僕らは、様々な経緯で、「自分自身の価値」についての、疑念を得る。
それを「学ぶ」機会は、いくらでもある・・・
僕らは、そればっかり教わって大人になるんだから!
「◯◯をしたら、良い子」という、条件を僕らは、無条件で受け入れて生きていく。
それは、「◯◯をしなければ、価値がない人間だ」という観念として
僕らの中に積もっていく。
大げさだけど、この文章を、心の底から口に出来る人は、いるだろうか。
・私は生きてるだけで、価値がある。
・私は、ただ、そこに居るだけで、誰かにギフトを与えてる。
・私は、無条件の愛を与えられる価値のある人間だ
少ないんじゃないかな。
正直、僕も、心の底から口に出来るか?と言われれば、大きな疑問符がつく。
つまり、僕らは
・条件つきで、自分は価値がある
(=◯◯ができるから、◯◯がうまいから、◯◯がすごいから、自分は価値がある。)
と感じているのだ。
この自己評価が、自分の幸せを許可しないのだ。
「無条件で幸せになる資格がない」と僕らは、確信している。
故に、「幸せを、実現しないための条件リスト」を創ってしまう。
先の女性について、僕は
「結婚をしないために、一生懸命、条件リストを創っている」
と理解した。
「かぐや姫」のエピソードと似ているよね、
求婚者に、絶対にクリアできない結婚条件を突き付けるシーン。
違いは、かぐや姫は、意図的だけど、本件では、本人無意識だということ。
だから、まず、「自分が、自身を無条件で認めていくこと」
にフォーカスすることからスタートする必要がある。
なぜ、条件をつくって、自分から幸せを奪ってしまうのか・・・
それを考えていく必要がある。
「条件がクリアできないと、自分は幸せになれない」
という、「呪い」から、自分を解き放っていこう。
・自分自身が無条件に価値があり、無条件に幸せであること
この根本的な感覚こそ、僕らが取り戻していく、根本的なピースだ。
世界中をまわって探している、パズルの最初のピース、そして最後のピース。
毎日たくさんの課題を自分に与えて、
たくさんの条件をクリアして、自分は価値がある!やった!
というのは、いつか、必ず限界がくる。
走れなくなったら、そこで、自分の価値がわからなくなってしまう。
もちろん、それは意味がないわけじゃない。
走る中で、多くを見つけ、学び、成長することができるだろう。
それは充実した、美しき、かけがえのない時間だろう。
しかし、走れなくなった時にこそ、はじめて、本質的な問いに向き合うことになる。
つまり、「◯◯ができる」という条件を一切はずした時に残る
「自分」とは何か・・・という問い。
だからきっと、ランナーは、「走れなくなること」を望む。
自分自身に、その問いを与えるために。
そして、その問いを「自らの内に向けること」を選ぶのであれば、
自分と相手に与えている条件から、自分自身を解き放っていこう。
条件をひとつひとつ、見つめ、認め、解放していこう。
その先にしか、幸福というものはない。
幸福というモノが精神に生み出される構造上、
それ以外のカタチで、幸福が実現されることはないのだ。
幸福は、幸福になるための条件を全て捨て去った時に、訪れる。
そういう話をしたら
「とりあえず、あなたとは、絶対に結婚したくないということだけはわかった」
と言われた。
「血液型がB型だから?」と聞いたら、
「あなたって、幸せな人ね!」・・・だってさ!