大きな物語と、僕ら | 須藤峻のブログ

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すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

僕らの時代は、
「大きな物語」が失われた時代と言われています。
この聞き慣れない、「大きな物語」という言葉ですが、
リオタールという哲学者が使って有名になった言葉です。

今日は、この「大きな物語」とは、何か。
そして、そんな時代を生きている僕らの、歴史的な立ち位置・・・
そんなことを、書いてみようと思います。

「大きな物語」とは、もっとも簡単に言えば、「常識」です。
=その社会において、みんなが知っている、正しいコト/本当のコト/美しいコト
というような感じでしょうか。

人類学や哲学では、この様な、実体はないけど、みんなが信じている「ルール」とか「話」のことを「物語」と呼ぶので、「大きな物語」とは、「みんなが共通して信じているコト」くらいに理解してもらえたらと思います。

この「みんな」の範囲は、「国」だったり、「地域」だったり、「文化圏(例えば、ヨーロッパ・・とか)」だったり、様々ですけど、「自分が日常的に見て聞いて触れる範囲のセカイ」とイメージしてください。

さて、この「大きな物語(=常識)」は、「暗黙のルール」として機能しています。
暗黙のルールとは、「当たり前過ぎて、わざわざ、口に出す必要もないくらい、明らかな決めごと」のことです。

例えば、

・お葬式では、黒い服を着る
・男性は、メイクアップはしない
・結婚は、男女で行う。

別に、法律で決まっているわけではないけど、
それが「常識だ」と、みんな知っていて、基本的には、それに従って生きています。
共通してぼんやりと持っている人生観や人間観も、大きな物語のひとつです。

・若い頃には、苦労をした方がいい
・和を大切にするべきだ 等々・・・

「大きな物語の時代」とは、そんなルールや共通目標が、た~くさんあって、
それが、社会の規範や道徳、みんなが一緒に暮らす基本原則になっていた時代のことです。
人類史が始まって以来、そんな時代が続いていたと考えていいでしょう。
それは近代と呼ばれる時代まで続いてきました。
日本で言えば、戦後・・・昭和という時代。
オールウェイズ三丁目の夕日なんて、わかりやすいですよね。

・みんなで働き、みんなで豊かになる

この、「豊かさ」は、みんな共通で、想像できた。
そして、そのために、「働くこと」も、「当たり前」だった。
「大きな物語の時代」は、こんなイメージです。

でも、上記の例は、現在日本においては、
既に「当たり前」ではありませんよね。

僕を含め、このブログを読んでくださっている方々の多くは、
「価値観は多様なモノ!」という時代に、もう長く生きてきました。

「この地球にはいろんな考え方がある。
セカイを見渡せば、僕らの「常識」なんて、ローカルな、「きめごと」に過ぎない。
だから、わかりあうためには、自分の「常識」を絶対正義と考える旧い考え方を捨てて、
お互いの「価値観」を、認めあう必要がある」

こんな考え方は、既に、「常識」ですよね。
しかし、僕らにとっては、この考え方は「常識的」だけれど、
こんな考え方をしている人が「多数派」になった時代は、
この人類史において、ごく最近、この数十年のことです。

この状況をめぐっては、たくさんの議論があります。
共同体意識や仲間意識が低下したり、安心して信じることができる”規範”がなくなって
個々人が生きることに不安を感じる・・・
確かに、「デメリット」に見える側面もあるでしょう。
(それは、視点を変えれば、デメリットではない・・・いや、そもそも
メリットもデメリットも、幻想にすぎないんですが、それはまた別の機会に話をしましょう)

しかし、それ以上に、「異なる常識をもつ社会同士、個人同士が、共生するため」に、
「大きな物語」を解体していこう・・・という大きな方針が、地球全体で、推進されている状況です。

旗ふり役がいて、大手広告代理店辺りが推進している・・・わけではなく、
民主化の流れは、その様に進んでいるということです。

だから、もはや「誰もが信じる共通の常識やルール」が社会を成り立たせていた時代、
隣人と同じ価値観を前提にできる時代、長い長い大きな物語の時代は終わった・・・・
そう言われているのです。

確かに、これまで想像だにできなかった事件や、出来事が
僕らの社会には生まれています。
10年前、「ボーカロイドの年越しコンサート」は、ただの笑い話だったでしょう。

さて、では、本当に、大きな物語は消えてしまったのでしょうか。
確かに、「疑いなき正義」として、大きな物語が君臨していた時代は、
特にこの日本においては、過去のものです。

しかし、実は、ここに落とし穴があるんです。
その落とし穴とは、

「自分は、「常識」や「社会の価値観」や「文化のルール」(=大きな物語)から
解放されている。自分の意志や自分の価値観に従って生きている」

という感覚です。


もちろん、30年前より、僕らは、ずーっと、柔軟に物事を考えています。
確かに、

・葬儀の服装は、もっと自由であってもよい
・お化粧は、性別を問うものではない
・結婚は、異性とでも同性とでもしていい

と考えている人は、多い。(好き嫌いは別として)
「何を信じ、何を正しいと感じ、何を良しとするか」それは、個人個人の価値観の問題だ
・・・とわかっている人は、たくさんいます。

ても、このセンテンスに

・葬儀の服装は、もっと自由であってもよい(普通は、黒装束だけど)
・お化粧は、性別を問うものではない(普通は、女性しかしないけど)
・結婚は、異性とでも同性とでもしていい(普通は、異性とするけど)

「普通は、◯◯である」・・・という部分が、
無意識に前提され、くっついていることに気がついてる人は、少ない。

この「普通は、◯◯だ」という「事実」は、
本人にとって、疑うまでもない暗黙の了解です。
言葉にする必要さへないくらいの、「常識」なんですね。
つまり「大きな物語」が、しっかりと存在し、機能しているということに他なりません。

そう、実は、「葬儀の服装は、自由であってもよい」という発言をしている人の
心の中には、「葬儀の服装は、黒であるべき」という価値観が、
深く根付いているんです。

いや、むしろ、「本当は黒だ・・・」と強く思っているからこそ、
「もっと自由に!」という意志を口にしたという、強い「欲望」が湧いてきた。
そう、考える方が、理にかなっているんです。

ここに見えてくるのが、
「人間は、口にしていることと、正反対のことを確信している」
という構造です。
そして、その「確信」こそが、より深い場所にある、
自分の主義主張=ファーストプライオリティなんです。

例を挙げてみましょう。

・人をバカにしてはいけない(表面的な自分の声)
→ 人間は、他人をバカにする存在だ(無意識の確信)

・平和を作らなくてはならない(表面的な自分の声)
→ 人間は、暴力的な動物だ(無意識の確信)

・しっかりと、働かなくてはならない(表面的な自分の声)
→ 人間は、怠け者だ(無意識の確信)

・もっと愉しんで働こう(表面的な自分の声)
→ 仕事は苦しいものだ(無意識の確信)

・自由にやろう(表面的な自分の声)
→ きまりを守らなくてはならない(無意識の確信)


長らくかかりましたが、ようやく、話が佳境に入ってきました。

自分が、「愉しく働こう!」と語りかけた相手とは、
生真面目に働いている友人だったはずです。
(遊んでいる人に、「遊んで暮らそう」なんて言いません)

この状況は、

① 自分の心の中に、「生真面目に働くべき」という確信(大きな物語)がある
② その確信に対して、「異議申し立てをしたい」と思う
 (大きな物語が、自分にフィットしていない)
③ 「生真面目に働いている友人」を、目の前に呼び出す
④ 友人の姿を、「生真面目に働いている」と「解釈」する
⑤ 異議申し立て=「愉しく働こうぜ!」という意見をする

このように、して目の前に創り出された機会だったわけです。
これが、僕らが、目の前の現実を体験する、仕組みです。

すると、「語りかけた相手」とは、
自分自身の信じている「大きな物語」を体現している人
すなわち、「深い場所にいる自分そのもの」・・・だということが見えてきます。
だから、相手は自分の本当の姿を映し出す「鏡」なんです。
(この部分を、取り出すと、「鏡の法則」が出来上がります)

さて、すると、僕らは、「経験」に対して、
この様な態度を取ることができます。

例えば、「生真面目すぎる同僚が、気になって、愉しめよ!と声をかけた」なら、
自分は、「生真面目に働くべきだ」と思っているんだな・・・
それって、本当に、「自明」のことなのかな?
それって、自分にフィットする価値観なのだろうか?
(フィットしていないから、「生真面目に働く人」に、No と伝えたわけです)

こんな風に、自分の中に入っていた「大きな物語」を
検分し、不要であれば、解放していくことができます。

するとどうなるか。

「愉しく働こう!」なんて、口にせざるを得ない状況
 =愉しく働いていない人が、目の前にいる状況
は、目の前から消えます。

つまり、「愉しく働こう!」と口にする必要性がなくなるために、
そんな状況を自分の前に創り出さなくて良くなるということです。
単純に、当たり前の様に「愉しく働く自分」が現れる。
そして、「過剰に生真面目に働いている」と思っていた友人の働き方が
まったく気にならなくなる。


・・・ここも、また別の機会に詳しくやりましょう・・・


さて、大きな物語からの解放の時代、その過渡期にいる僕らは、
今、みんなで、意識的に、無意識的に、そんなことを、やっています。
もちろん、そうやって生きた人たちはいつの時代だっていました。
しかし、それがこれだけの潮流になったのは、現在という時代だからこそでしょう。

僕らの上の世代は、「ジャーナリズムの世代」でした。
自分の外側にある「大きな旧い物語」を、告発する世代。
社会悪を見つけ、それを、社会という自分の「外部の問題」として捉え、解決を目指す世代。
それは、歴史的に必要なプロセスであったことは、言うまでもありません。

しかし、その時代は終わろうとしています。
そのアプローチによって、解決できる課題については、多くが解決されました。
今、残っている課題は、そのアプローチでは、届かない課題がほとんどです。
問題の外側に自分を置く立場からできることは、もう、あまりない。

そこで、僕らの世代が行っていくのは、
あらゆる課題、あらゆる問題を、自分の内部へと引き取り、
自分の中の問題として解消していくという、アプローチです。
自分の内側と外側をリンクさせ、内側から変えていくという方法論です。

たくさんの人が、その方法論、その様な生き方へとシフトを開始しました。
この流れは、ますます、高まっていくでしょう。
そして、僕らは「大きな物語」を生きる、最後の世代になるでしょう。
「歴史的な大仕事」と言っても良いかもしれません。

そんな時代に、僕は、何が出来るだろうか・・・と考えてきましたが、
カウンセリングや、文章などを通じて、
・「大きな物語」から自分を解放し、より自在に生きるための方法」
を、伝えていく場所に、立つことになりました。

先駆者達が研ぎすましてきた「知」を、日々の生活に使える「技術」として、
それぞれの場所で、各自の人生をもって、この大仕事に取り組む皆さんに
お伝えしていけたらと思います。