録画ストックから。
この作品、観に行くかどうか散々迷った末にやめたのだが――
結果的に「行かなくて正解」だった。
わたし、女が大勢集まってキーキー騒ぐ絵面が本当にダメ。
芝居であっても嫌悪感が先に立つ。
わたしの生活圏では、女が束になってヒステリーを起こす場面に遭遇したことがないし、そもそもそんな場には近寄らない。だから、どうしても“リアル”に感じられない。
女のヒステリー声は、右翼のガナリと同じくらい、
誰にも届かないし、聞く価値もない。
日本人女性の声は平均してキーが高いから、3人以上同時に金切声をあげると、
わたしの思考は一瞬で止まる。
不快感が先に立ち、ストーリーを追うどころではなくなるのだ。
この舞台は、要するに『十二人の怒れる男』の女性陪審員バージョン。
裁かれるのは、子殺しの共犯とされた少女サリー(大原櫻子)。
罪状は確定していて、陪審が判断するのは「妊娠しているか否か」だけ。
そんなもの、医者が判断すればいいのに、
女たちが感情・私情・憶測を持ち寄って「死刑でいいんじゃない?」を議論するのが軸。
少女ひとりの命がかかっているのに、議論は浅い。
まとまりかけた意見をぶち壊すのが、助産師エリザベス(吉田羊)。
彼女はかつてサリーを取り上げた経験があるゆえ、
“過剰な庇い”と“責任感”を持ち込む。
12人の女たちは、不良少女サリー自体にはほぼ無関心。
「陪審員」という立場の重さも理解していない。
時代が1700年代の男性優位社会だから……と説明されれば納得はできる。
では、現代はどうだ?
女性の地位は上がったか?
構造は変わったのか?
この作品が提示するのは、
「結局、人間はそんなに変わっていない」という皮肉。
“わたしは従う方が楽”という女性は、2020年代にも普通にいる。
つまり、1700年代が現代にアップデートされても、
根っこの認知や力関係はほとんど変わってないよね?
という脚本らしい。
……でも、わたしはこういう投げかけ方が好きじゃない。
問題提起のつもりでも、
作者側の“上から目線”が透けてしまうと「あんた何様?」となる。
これは、加藤拓也の“珍しくハズした”仕事だと思う。
田村健太郎は二役で出演。
一幕の「クソ旦那」っぷりはなかなか良かった。
これまで臆病だったりズレた人間を演じることが多かったけれど、
最近は“嫌なヤツ”の役が増えていて、振り幅が一気に広がった。
180度違う方向の人物像を軽々と演じていて、
これからも追いかけてみたい役者のひとり。
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2022年
作: ルーシー・カークウッド
演出: 加藤拓也
出演:
吉田羊、大原櫻子、長谷川稀世、梅沢昌代、那須佐代子、峯村リエ、明星真由美、那須凜、西尾まり、豊田エリー、土井ケイト、富山えり子、恒松祐里、土屋佑壱、田村健太郎
声の出演:段田安則
美術:伊藤雅子
衣装:前田文子
1759年、英国東部の田舎町。殺人罪で絞首刑を宣告された少女サリー(大原櫻子)は、「妊娠中であれば死刑を免れる」と主張する。妊娠の真偽を判定するため、過去に妊娠経験のある12人の女性が陪審員として招集される。彼女たちの過去や思惑――出産経験、流産、家事に戻りたい者、審議を煩わしく思う者――それぞれの思惑が交錯する中で、サリーの運命と「真実」が明らかになっていく。舞台は、古代的法と性差別、女性たちの境遇をえぐるサスペンス。
