デリケートな問題を創作として制作する難しさを感じる。私は“障害”や“病気”を扱う場合、実話を元にするか、当事者の創作にしなければ、すべて偽善だと思ってしまう。リアリティをムシして、理想だけで描いてしまうことに危なさを感じる。しかも健常者視点で、障がい者への理解や反応の理想を描いているだけのように感じる。当事者の人達がどう感じるのかは分からないが、重荷にならなければいいな、と。この映画のように、友人ができなかかったり、ひどい仕打ちを許せなかったりしても、その反応がおかしいのでなく、この映画が奇跡と偶然の理想論で描かれていることを分かったうえで見なければいけない。現実は、こんなに温かい人たちばかりではない。
私は障がい者でもないし、近親者や友人に該当する人物もいない。だから、第三者の過剰な偽善感情かもしれない。でも、当事者の子供が、オギーのように勉強ができなかたら。ジャック・ウィルのような友達ができなかったら。ジャック・ウィルが謝ってこなかったら。いじめっこのジュリアンが転校しなかったら。いじめよりも寄付をしてくれるモンペを優先する校長だったら。いつも笑顔とユーモアを忘れない父親じゃなかったら。自宅学習できるほど余裕のない母親だったら、、、、。
この映画をみて、どう思うだろうか。
この映画に登場する人々は、オギーという太陽の光を受け、オギーのおかげで素直になれたり、勇気を与えられたとして描かれている。オギーがいたからのみんななのか、みんながいたからのオギーなのか。卵が先か、ニワトリが先か。
せめて、こんな時代なんだからオギーを特殊メイクでなく、トリーチャーコリンズ症候群の子供を採用すれば説得力をましただろうに。
でも、フィクション映画、ドラマ映画としてみればとても、丁寧に温かい視点で描いている感動映画とは思う。どういうわけか、私は“障害”と“病気”をネタにしている映画に、厳しい目線を向けてしまう。
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2017年アメリカ
