少し前になりましたが、昨年までに全国5カ所の地裁で、同性同士の「婚姻」を認めない現行の民法や戸籍法の規定などについて、マスコミは4地裁で同性婚を認めていないことを「違憲」「違憲状態」とする判決が出たと報道していました。例えば朝日新聞は「同性どうしで結婚できないのは違憲とした5月の名古屋地裁判決」と書いていましたが、これは誤報だと法学者で麗澤大学国際学部教授の八木秀次氏が産経新聞に投稿しています。

 

判決をよく読めば、単純に同性婚を認めないこと自体を「違憲」や「違憲状態」とした判決は一つもないのです。これらの判決は、同性愛者に対し結婚そのものを認めなければならないと言っているのではなく、結婚で得られるメリットの一部(例えば社会的承認など)を得られるようにすべきだと言っているに過ぎず、「同性婚」そのものの導入を命じることは慎重に避けられているのです。

 

少なからざる裁判官が、結婚を男女間に限定した現行制度を改めさせたいと思っているのは事実でしょうが、結婚を男女間に限定することを「違憲」とすることには憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」があり躊躇しているのです。この条文が同性婚推進派の裁判官に対するストッパーになり、ストレートな違憲判決が出せないのです。

 

ところが、この「両性」がストッパーになってきた文言の「壁」を乗り越える判決が出されました。3月の札幌高裁の判決では、同性婚を認めていない民法などの規定は憲法24条に違反すると明言し、さらに同条が同性婚を保障しているとまで主張する全く逆の驚くべき判決だったのです。

 

「両性」という言葉があるのに、どうして違憲判決を出せるのか? 普通は疑問に思いますが、頭のいい裁判官らしい巧妙な論理、言い換えれば「屁理屈」で、憲法の「両性」という言葉を、勝手に「当事者」と読み替えているのです。「両性」を「当事者」と変えると、24条は「婚姻は、当事者の合意のみに基いて成立し…」となりますから。しかし、裁判官が勝手に憲法の文言を書き換えるようなまねをしていいのでしょうか。

 

要するに、憲法の言葉を同性婚推進派の都合のいいようにすり替えたのですが、「法の番人」として、法の文言を重んじる裁判官にしては大胆な手法ですが、この論理には、裁判官出身で元最高裁判事の千葉勝美氏の『同性婚と司法』(岩波新書、今年2月刊)と、彼が2年前に発表した論文に元ネタがあったのです。

 

同書は初めから同性婚を認めるべきだとの結論ありきで、そのためにどうやってこれまでの憲法解釈を曲げるかを示した憲法解釈のマニュアル本のようなものなのです。札幌高裁の判決は千葉氏の論理も言葉遣いもそのまま借用しているように見える「パクリ判決」と言えるようなものだったのです。

 

要するに憲法条文の意味は時代によって「変遷」しているのだから、「両性」「夫婦」の文言は、このご時世、「当事者」「双方」と読み替えていいのだというもので、札幌高裁判決とそっくりの内容なのです。ポイントになるのは「憲法の変遷」という考え方ですが、これは19世紀ドイツの公法学者、ゲオルク・イェリネックが提唱した理論で、日本国憲法のように改正が難しい「硬性憲法」は、簡単に改正できないから、社会との間に齟齬が生じる場合は、同じ文言でもその意味が変遷していくと考えるべきだ―というもの。

 

同性婚推進派の千葉氏は憲法24条の「壁」を乗り越えるためには「憲法の変遷」論に基づく文理解釈、すなわち「両性」から「当事者」への読み替えが「同性婚を憲法上の権利として法制化するための唯一の憲法解釈」であるとし、司法(裁判所)が毅然としてこれを主張すべきだと煽っていて、札幌高裁はこれに沿った判決を出したのです。

 

しかし、裁判所が憲法を文言の原意に関係なく、裁判官の主観的判断で再解釈することは、司法がその権限を越えて文言を改正すること、つまり事実上の立法行為をするに等しいと言わざるを得ず、立憲主義や憲法の規範性に反するものです。憲法改正は国会の発議で国民投票によって決めるべきものだと憲法が定めているのに、それを司法が勝手に行っていいはずがありません。これが、同性婚を認めようとする勢力のやり方であり、それを肯定するマスコミ報道なのでしょうか。