「天よ、我に七難八苦を、与えたまえ」と言ったのは、
楠木正成ではなく、「山中 鹿介 幸盛」でした。
申し訳ございません。
時代も全く違う武将ですし、神城の完璧な勘違い、思い違いでした。
慎んでお詫び申し上げます。
ちょっと前のYou Tubeの中で、嘘八百を並べ立ててしまいました。
もうひとつ、同じ動画の中で、「鹿も四足、馬も四足」と言ったのも
楠正成ではなく、源義経でした。
”鵯越(ひよどりごえ)” 文部省小学唱歌(明治45年・3年生用)
1、鹿も四つ足 馬も四つ足 鹿も越え行くこの坂道
馬の越せない道理はないと 大将義経真先に
2、続く勇士も一騎当千 鵯越に着いて見れば
平家の陣屋は真下に見えて 戦さ今や真っ最中
3、油断大敵 裏の山より 3千余騎のさか落しに
平家の一門驚き慌て 屋島を指して落ちて行く
重ね重ね、すいまでんせした。
◆ところで、その「願わくば、天よ、我に七難八苦を、与えたまえ」
と言う、言葉の真意は何なのでしょうか?
◎神城流の解釈は、以下のとおりです。
逆境の中にこそ、次への飛躍のチャンスやヒントがある。
また、大きな逆境・苦境を乗り越えてこそ、人生の真の成功、幸せがある。
苦労や、大変なことなどの「人生の壁、障害」から、逃げてばかりいる人物の人生は、
所詮、その壁の前までのレベル、ステージで、終わりである。
それは、ロールプレイのゲームによく似ている。
ゲームの中では、主人公である若きあなたが、何度も
敵や、障害、障壁にブチ当たりながら、何とかそれらに
打ち勝ち、克服して、目的の黄金地にたどり着くストーリー
な訳だ。
今のレベル(ステージ)最強の敵を倒してからでないと
ゲームのレベルを上げ、次のステージに行くことは出来ない。
それに、そもそも、そうした困難や障害を乗り越えようと
チャレンジしなければ、人生という名のゲームをやっている意味
(=生き甲斐)もない。
但し、無理のし過ぎは、駄目だ。
どんな障害・困難に立ち向かって行っても良いが
自分の今の実力やレベルを遥か彼方に凌駕している「敵」
に向かって行くのは、勇者ではなく、愚者である。
現在のネット・ゲームでも、あなたは、あるステージで、
色々なシュチュエーションで、様々な怪獣や、モンスター
などの敵に出くわし、倒して行く。
その時、敵の強さや賢さは、いきなり最強のライバルが現れる
のではなく、徐々にその攻略の難易度が上がっていくのが常道だろう。
そして、そのステージの総決算として、そのレベルで最強の敵が
最後に登場し、あなたとの決戦になる訳だ。
◆話が、かなり脱線して来たので、元に戻そう。
「天よ、我に七難八苦を与えたまえ」
の意味するところは、
困難を克服してこそ、我の成長・成功がある。
また七難・八苦を克服してこそ、真の勇者になれる訳だからこそ
願わくば、七難八苦を与えて欲しい。
我は、見事その七難、八苦を克服し、その障壁を乗り越えた
ところで、パラダイスを見れるだろう。
神城流の解釈は、こんな感じである。
また、「山中 鹿介」がいかなる人物だったかは、稿を改めて、お話させてもらいます