「よし、じゃあ、この人になら敬意を払える、と、そう思えるまでに、一体、どれだけの確信が必要か。

よし、じゃあ、この人になら恋をどこまでも延ばせる、と、そう思えるまでに、一体、どれだけの確信が必要か。

よし、じゃあ、この人になら僕のくだらない、実りのない、地に足のつかない空想や理想を話せる、と、朧げにでも思えるまでに、一体、どれだけの確信が必要か。

よし、じゃあ、僕は、やっぱりこうした僕で生きていくしかないのだな、と、少しずつ、少しずつ、変わってゆくしかないのだな、と、そうやって、ほんの消え入りそうにでも思えるまでに、一体、全体、どれだけの確信が必要か。

僕は、恐ろしくて仕方がない。

人生の果てしのない道程を思うたび、恐ろしくて仕方がない。」

フリッポスがそう言うと、その場にいた皆が押し黙った。


プリンスも、ガルバも、メイタも、ルキニも、僕も、その他の皆も、全員が全員、フリッポスの言葉の意味が分かっていた。

分かりすぎていたから、何も言えなかった。

それをどう対処してゆけばいいのか、現時点ではあまり美しいとは言えない、そういった心の中の無骨な重石をどう対処してゆけばいいのか、誰もその答えを持っていなかった。

もちろん、仮説はいくらでもあった。

僕も彼らも、それなりの人生に触れて、そこそこの思想に巡り合ってきてもいた。

けれど、口先の理論と、自分の一生による実践は、あまりに、本当にあまりにかけ離れていた。

そうして、うやむやな静けさの中、時間は過ぎていった。



ふとした瞬間、パティが口を開いた。

「とはいえ…、僕らは、神様や運命や自然に殺されてしまうまで、必死に生き抜いて、そうして、結果としての僕らの価値を、必死に見つけてゆかなければならない。

きっと僕らは、人生を急ぎ過ぎているだけだ。

道程が何やらと、気にするのだって、僕らが単に若すぎるだけだ。

結局、僕らは、僕らでしかあり得ないというのは、我々の知っているところの通りであるんだから、その段階を、ゆっくりと、越えてゆくしかないんじゃないだろうか。

ほんの消え入りそうな確信を、何千も何万も、重ねてゆくより他はないんじゃないだろうか。

その果てしなさに、胸が詰まっても、足がすくんでも、自尊心の強い僕らのことだから、どうせ、なんとか生きてはゆくさ。

そうして生き抜いて、結論として、ああ、僕は、僕の思うほどでは無かったけれど、それでも、まあ、そこそこでは、あったのかもな、と、ほんの消え入りそうにでも思えたら、それは、一人の生涯としては、あまりに美しいんではないだろうか。

…これはあくまで僕の理想論だが、未来を無闇に恐れるのも若者の特権ならば、無闇な理想を掲げるのだって、やっぱり若者の特権だ。」


その後も、会話はほとんど無かった、…これは決起集会では無かったし、啓発的なものでもなくて、ここで瞬間、なにかしら救われるということなんて、特別、誰も期待していなかったので…。

けれどその後の静けさは、雨季のジメリとしたそれとはまるでちがった。

皆、ぼんやりと、何かに気づけてゆける気がしていた。

彼らが性質として、まずは精神的に平均へと向かうべき種族だということは周知の事実であって、それ故に誰もがそこに恐れを抱いていた。

けれど、平均や平凡も、思ったほど、忌み嫌うべきものではないんじゃないだろうか。

それ以上に、一生分の運命を全うするということの方が、もしかしたら、何よりも重大…。


そうして僕は、いつかのプリンスの言葉を思い出していた。

「人間として、運命に殺されるまで誠意を持って生き続けるという、一見、権利に見えるこういった事項を、完全なる義務として、誠実に全うするだけでいいという、そうした認識を人生に対して持てたなら、それは、身勝手で軽薄な自由なんかの、数百倍もの値打ちがある。」

プリンスはそう一口に言ってしまってから、ちょっと目線をはずして、

「まぁ、『夜間飛行』を読んでの感想なんだけれど…。」
「お前が思うほどお前はスゴくはないし、お前が思うほどお前はクソでもない。

俺に言えるのはそれだけ。」

ティエルトの反応を少し待って、そして、

「要するに、俺はお前の不幸自慢にはもう飽きたんだよ。」

それで電話を切って、プリンスは携帯をソファーの上に投げ捨てた。




「ティエルトは、実際、そんなに不幸ではないさ。

生まれて来てしまったことが不幸だなんて言うなら、話は別だけれど。

彼は、少しばかりナイーブで、少しばかりセンシティブで、彼の少しばかりのプライドと理想が、彼の実際と少しばかり一致しないだけなんだ。

それに彼はまだ若い。

彼が現実に嫌気がさして、途方に暮れて、ふさぎ込んで…、…それでも人生は捨てたもんでもないと、そうやって思えるまでには、これからいくらでも時間がある。

それを、順番にこなしてゆくしかない、…順番にね。

最短距離でいけるなら美しいけれど、なかなか、そうもいかないけれどね。

…まぁ、とにかく、彼なら大丈夫さ、…僕とは違う。」

プリンスはふぅとため息をついて、それから投げ捨てた携帯電話をチラリと見た。

携帯電話はただの物体然として、液晶画面は無愛想に蛍光を反射させるだけだった。


その後のプリンスは、ほんの数秒単位でやつれていった。

彼の言葉は全て、ティエルトや彼の背後に広がる世界を何周もして、そうして最後には彼自身に帰り着いてゆく。

彼は自分の刃で自分を裁き続けている、これまでも、そしてこれからも。

彼が自由であろうとすればするほど、その対価が重みを増してゆく。

最初は小石ほどの小気味の良い自由が、気付けば巨大な鉄塊みたいにズシリと唸る。

彼のか細い両肩では、どうしたって、支えきれない。

彼はもう少し、贅肉をつけるべきだ。

世の中や彼自身の欺瞞を、もっと受け入れてゆくべきだ。

都合のいい潔癖は、ただただ、それはただただ、ズルいだけだ。

そうしていつしか、贅肉が筋力になればいい…、彼のやせ細った精神が、多少の頼り甲斐を取り戻せばいい…。


…けれど僕は、そんなこと、プリンスに言えない。

彼が作り上げた彼というゴテゴテの巨城は、まさにハウルのそれのように、もはや均衡を失って、ほんの少しの揺らぎで、跡形もなく砕け散ってしまうことを、僕も、そしてプリンス自身も、ただただ痛いほどに分かっていたから。
「君もいつか、歳を重ねて、体がくたびれて、背骨が曲がって、些細な一つ一つに骨が折れるようになる。

そうしてその時になって、相も変わらず遠回りばかりしないでもすむように…。

ねぇ、君、若い君みたいな内に、自分の人生の分別を、ちゃんと身につけておくんだよ。

私らが思うほど人生は短くはないが、かといって長いというわけでもない。

君みたいなタイプは、特に、目移りだってしやすそうだから、特に、言っておくんだ。

本を読むのに、眼鏡がいるなんて、馬鹿みたいと、私だって、思うんだ。

ねぇ、君、きっとだよ、きっと、君がよぼよぼになった時に、虫眼鏡で、大切な文章だけ追っていけるように。

きっと、望遠鏡で、大切な銀河の観察ができるように。

分別をね、きっと、分別をね。

無駄なものなんて、ないことも確かだけれど、それにしたって…。

きっと、分別をね。」


ロッヂ婆がそう言うと、プリンスは静かに礼をして、はい、と、小さく言った。

僕はてっきり、プリンスはこういった言葉を、フフと鼻で笑い飛ばすんじゃないかと思っていた。

結果として、そうではなくって、けれど違和感も無かった。

ロッヂ婆はそれから目を閉じて、揺り椅子の揺らぎの中で静かな寝息をたてはじめた。

真昼の太陽の暖かさが、緩やかな橙の風に乗ってロッヂ婆の部屋に入り込んだ。

戸棚のガラス戸がカタンと鳴って、花瓶が葉っぱと擦れてカサリと鳴った。

樹窓の奥の景色は、アリスが覗いた不思議の国みたいに緑に溢れていた。

そうして僕は思った。

プリンスは、きっと、虫眼鏡で、きっと、ちゃんと、大切な文字を追うだろう。

きっと、望遠鏡で、あるいは顕微鏡で、宇宙の隅から隅までを見て回るだろう。

そうして、この先、ロッヂ婆が天に召されるまでは、そんなに長くはないだろう。

けれども、それは、短いということもないだろう。

そしてそれは、僕たちにしたって同じ…。


…そして、ロッヂ婆は幸せだろう。

人生の最終盤で、自分の言葉を真摯に受け止めてくれる人間がいて、ロッヂ婆は幸せだろう。
「人生は、本当に、一大事業だ。

細菌と戯れながら、宇宙の果てに思いを馳せなくちゃいけない。

日々の飯を確保しながら、未来の自分の責任をとっていかなくちゃいけない。

科学に助けられながら、思想に満ち満ちていかなくちゃいけない。

実際、骨が折れるよ、けれど。

やってやれないことも、ないと思う。

何万年もかけていけばね、きっと。

全てとの共存だって、わけないさ」

そうやってパティが言うと、プリンスが後を継いだ。

「実際、日々の飯を確保することが、未来の何もかもに繋がっていく…、…全てに美意識さえあれば」

プリンスは照れ隠しのしかめ面だったけれど、パティは大いに笑っていた。


全ては綺麗事だったけれど、実際、僕らは着実な現実と相対しながら、たまには綺麗事に心を預けなくっちゃあいけない。

未だ、人類は、その均衡を保ててはいないけれど、そこへ向かおうとする意志は、決して、無駄なんかじゃないはずだ。

現実と夢は、あまりにかけ離れて、けれども表裏一体で、そんなメビウスの迷路は、気付けば人類を宇宙へも飛び立たせた。

やってやれないことも、ない。

パティのその言葉を、僕は人生の中で、聖書の一節みたいに何度も繰り返した。

パティはイエスじゃなくて、神様でもなくて、ピッポラの樹の下で真理を悟ってもいないけれど、僕やプリンスなんかのコミューンの中では、その言葉は、どうしたって意味を持たざるを得なかった。

僕らには、差し迫って、やってやらなくちゃならないことが、山ほどあった。

そいつら一つ一つを、一歩一歩、やっていってやろうじゃないか。

そいつら一つ一つを、一玉一玉、紐解いていってやろうじゃないか。

そうしてやれば、脳細胞や宇宙の秘密だって、いつかは、いつかは…。

そうしてやれば、僕や世界の秘密だって、いつかは、いつかは…。
「お前が死にたい、死にたいと言う気持ちもわからんでもないが、高校、大学と、人生の歩を進めるたびに失望してきたお前は、どうせ、死ぬことにだって失望するんだ」

プリンスはカンパウスに言って、カンパウスは何も言わなかった。

カンパウスは何も言えなかった。僕も、何も言えなかった。


時間が過ぎた。プリンスは携帯をいじっていた。カンパウスはおもむろに立ち上がって、静かに部屋を出ていった。僕はぼんやりと、カンパウスの後ろ姿を見送った。

カンパウスが消えた部屋の中は、シンと鳴って、プリンスがいじる携帯のクリック音だけが響いた。

ちょっとして、風が吹いた。強い風だ。窓が打たれて、音を立てた。

続けて、雨が振り出した。強い雨だ。屋根が打たれて、音を立てた。

僕はカンパウスのことを考えた。彼は、しっかり、やっていくだろうか?

これから先、彼にとっては、あんまりに寂しい、こういった人生というものを、彼は、しっかり、やっていくだろうか?

これから先、誰にとっても、あんまりに険しい、こういった人生というものを、一歩一歩、しっかり、やっていくだろうか?

そうして、僕やプリンスにしてみたところ、問題は同じ…。


雨は一様に降り続けていた。時々、クラクションが聴こえた。遠くに、雷鳴が聴こえた。

プリンスは窓の外を見た。僕も窓の外を見た。

雨粒は仄かな街灯に反射して、鈍い光を街に落としていた。窓に張り付いた水滴が、寄り合って、離れて、重なって、千切れて、そうやって絶え間なく重力の元へ流れていく。

僕はハッとしてしまって、プリンスを見た。一瞬、目が合って、それからプリンスは、静かに、目を伏せた。僕もやり切れず、目を伏せた。

雨音が時間を掻き消してしまった。やるべきことなんて、何もなかった。

僕らはすっかり黙ってしまって、そうして、ぼんやりと、思っていた。

確認するみたいに、何度も、何度も、思っていた。


(本当に、僕らは、しっかり、やっていくだろうか?)


そうやって、夜は更けていった。