新旧黄柳橋・前編【2022年2月12日】 | Subaru6の休日お出かけ記録

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お出かけして撮ってきた写真を載せていきます。

季節のお花巡りと、道路ネタ??が主になります。

近くを通ることは何度もあったけど、寄ったことがなかった場所に寄ってみようと思いました。

 


逆光の変な時間帯に来ちゃったなぁ…。(^_^;)

 


交差点のところに石碑を発見。昔の道しるべだろうなと思ったのですが…。

 


「文政五年午年」「乗本村…(あと読めない)」とか書いてあって、右の面はこれまた逆光でわかりにくいですが仏像のようなものが彫られていました。


文政五年=1822年らしいです。江戸時代後半か。思ったより古いものでした。

 


で、ここはどこかというとここ、愛知県新城市乗本川向です。


うまく写ってませんが、この車が通る橋は愛知県道69号豊橋乗本線(とよはしのりもとせん)に架かる黄柳(つげ)橋(平成6年=1994年竣工)です。

 


渡り切った側。

 


この現道の橋もアーチ橋で、見ての通り隣に架かる旧橋を渡ったのでそこから撮ってます。

現橋にも歩道はあるようですが、旧橋の反対側だったので現橋から旧橋が撮れず…。


横から覗き込んだ写真も撮ったのですが、逆光で酷い状態なので旧橋の様子は後編で…。(^_^;)

 


で、こちらが本来の目的である旧黄柳橋。時系列が微妙に入れ替わってますが、こちらR257側で渡ってる途中と渡り終わってから上2枚の現橋写真を撮ってます。

 


現在では車は通れないようになっていますが、徒歩でなら渡れます。というか、この時も生活道路として利用されている方と私以外にも橋を見に来たっぽいカップル(?)がいました。


車道だった頃のR257から左折しやすいような構造(なんて呼び方かわかりませんが)が残ってます。

 


街灯も橋のデザインに合わせたようになっています。

 


で、この旧黄柳橋ですがなんと「大正七年十一月」生まれだそうですよ。ウルシゼ橋と同い年ですね。
でもこの親柱、大正7年て感じがあまりしないような…?!

 


渡った側(豊橋方面側)に色々ありました。まずはこれ。登録有形文化財なんですね。

 


その隣のこれは是非とも読んでほしいと思ったので頑張って転記します。

文化財登録された旧黄柳橋(橋長:51.2m 幅員:3.6m)
この右手に歩道橋として残る旧黄柳橋は。大正7年に仮設された鉄筋コンクリート造アーチ橋(アーチスパン30m)で、同形式の橋としては大正時代を通じて全国一の規模を誇っていた。


当時の土木技術の限界であったスパン30mのアーチを使って50mを越える橋を架けたため、路面とアーチ環が大きく離れることとなり(通常のアーチ橋ではこれらは接している)、そのためアーチから路面を支える高い柱が必要となった。柱は強度や耐震性を考慮して井桁状になっており、これが全国的にも例のない、デザイン面でも優れた特徴となっている。昭和期にはいると、アーチ建造の技術が飛躍的に発達し、このような形式を採る必要がなくなった。このため高い柱を持つ旧黄柳橋の形態は、大正期という鉄筋コンクリートアーチ橋の黎明期においてのみ採り得る、時代性を色濃く反映したものといえる。


旧黄柳橋は国土の歴史的景観に寄与する建造物であることが認められ、平成10年9月には土木建造物としては県下で初めて登録文化財として登録された。(文化財登録制度は従来の文化財指定制度を補完するために平成8年10月に新設された制度で、文化財を活用しながら保存しようとする欧米型の保護制度である。)
               愛知県新城土木事務所




こっちは皆様で頑張って読んでください。(笑)

 


現存しているのは2代目と3代目なんですね。
さっきから文章ばかりで登場している旧黄柳橋の美しいアーチは橋の上やサイドからの撮影に失敗していてすみません。m(__)m

 


文化財としての橋の説明書きなんかがある側から。こちらは「黄柳橋」「黄柳川」と書かれています。

 


説明書きの近くにありました。

 


あとこれ、こちらが当初の旧黄柳橋の親柱らしいですよ!


説明書きには「この石柱は、登録文化財・旧黄柳橋の建設当初(大正7年)の親柱であり、平成3年の新黄柳橋の下部工事の際に、施工業者によりこの2本だけが発見され、川底から引き上げられたものです。」とのこと。

 


やっぱり今あるのは改修されたか何かの時の親柱なんですね。

ところで、橋は下から観察したいですよね。
と、いうわけで後編へ続きます。(えっw)