くんじゃんのオバア | ぶっ飛び沖縄‼︎

ぶっ飛び沖縄‼︎

突然沖縄に引っ越してきました。
楽しいこと、不思議なこと大好きです。


喜友名ナミさんは

今帰仁村 ( なきじんそん )生まれの

国頭村 ( くにがみそん )育ち。


当時出来たばかりの

北山 ( ほくざん )高校へ入学したのは

寮があったから通学しなくていいし

名護高校はお金が無くて

入れなかったから、というのは

本人の弁。


北山高校はスポーツで有名だ。

ナミさんも短距離走では

県大会まで行ったらしい。


沖縄が誇る空手家の金メダリスト

喜友名諒氏を

自分の息子だと吹聴する。

とにかく自慢する

自慢し過ぎて

本気にする人もいるくらい。


そう、ナミさんは

認知症だ。

今年は御年92歳を迎え

ますます楽しみが増えた。


バスケや空手や相撲や野球

さまざまなスポーツ界で

沖縄出身の若者たちが

大活躍しているからだ。

苗字だけで

沖縄のどこどこ出身

だと分かるらしい。


たとえ間違っていても

ナミさんには関係ない。

先祖をたどれば

必ず当たっているから

と、明るく笑う。



いかにも沖縄の顔😃

って感じの、濃ゆい面構えをした

喜友名諒( きゆな りょう)氏。

実にイケメンだ。


去年、明美姉さんは

新聞を見ながら

彼は燃え尽き症候群じゃないかしら?

と、チラッと言っていた。


霊視したの?と聞いたら

人さまの家に勝手に上がるような

失礼な事はしないわよ

と、言いながら

なんとなく心配なのよ

と、呟いていた。


まぁ

物事をテキトーにやるような

人物には見えない。

頑張りすぎるくらい頑張ってしまう

真面目なタイプという印象を受ける。

空手では右に出る者がいなくても

女性の平手打ち🖐️には

太刀打ち出来ないタイプと

私は見た。


そんな喜友名諒氏を

息子のように

褒め称えるナミさんには

ワケがあった。



ナミさんは

戦時中に、多感な時期を

生きている。


いくら国頭村という

北部地区とはいえ

戦争の影響から逃れることは無く

南部から命からがら逃げてきた

人たちが、安心したのか

目の前で棒のように倒れたのを

何回も見たという。


慌てて水を持って

飲ませてあげようと

抱き上げると

絶命していたこともある。


最後に国頭村に行ったのは5年前。

娘夫婦に連れられて行き

懐かしい風景を見て来たけれど

とっくに人手に渡った生家は

跡形もなく残っていなかった。


今はもう

誰も知る人はいないだろう

名もない墓石は

路傍の石ころに変わり果て

たたずむ薄い影を見ることが

あったという。


ナミさんは

少しだけ見える人らしい。


戦中は

とにかくお腹が空いて空いて

畑から芋を盗んで

食べたこともあったって。

誰もが生きるだけで

必死だった時代だからね。



那覇に出て来て

まもなく結婚した旦那さんも

10年後に亡くなり

子ども2人を育てるのに

夢中になって

国頭村を忘れてしまっていた。


娘さんは

学年トップで頭が良く

金持ちの親戚から

金を出してやるから

医者になれ、と勧められて

琉球大学医学部に進む。


華々しく自分の道を進む

娘さんに比べて

息子さんは逆だった。


勉強嫌いで中卒。

仕事を転々とし

酒に溺れギャンブルにハマり

借金苦のために

親戚中を回るナミさん。


娘には気前よく

大金をくれた親戚は

出来の悪い息子には

見向きもしない。


ナミさんは自分を責めた。

息子は母親に似るという。

自分がダメだから

息子までダメなんだと。


息子と2人

食べるだけで精一杯の毎日。

朝から晩まで働いて

息子の作った借金を払う。


5年が過ぎて

やっと明日残額を払ってしまえば

借金は無くなる、と

息子の好きな jimmyの

ジャーマンケーキを買って

帰って来た。


隣りの部屋をのぞくと

息子が寝ている。

あゝ、明日食べようと

冷蔵庫にケーキを入れた瞬間

ある事が頭に閃いた。


朝、出勤する前に見た息子の様子。

あの寝相の悪い息子が

そのまま寝ていたのだ。

慌てて部屋に入って

ナミさんは叫び声を上げた。

何度も何度も名前を

叫ぶように呼んだ。


息子さんは

すでに息をしていなかった。

触った体は硬く

氷のように冷たかった。


ナミさんの叫び声を聞いて

アパートの隣室の人が

声をかけてくるまで

ナミさんは息子さんの顔を

さすっていたらしい。


息子さんの死因は

病気などでは無く

心臓麻痺だった。



ナミさんは

仕事に打ち込む事で

目標へ向かって邁進した。

息子の墓を建てて

ご主人と一緒に眠ってもらうために。


明美姉さんのご主人が

社長をしている会社で

事務員として長年働いて来たナミさん。

事務以外にも、事務所と回りの掃除

トイレ掃除や社用車の洗車や掃除

など、気がつけばなんでもやった。


金庫番の美人番長が

過労から体調を崩した時には

明美姉さんと交代で

看病に当たった。


社員全員の食事を作る

明美姉さんは

毎日毎日、ナミさんへ

子どもたちの分も入れて

3人分の食事を持たせたらしい。


お腹が空いたら

いつでも食べられるように

ひとつづつ冷凍された大量の

じゅーしーおにぎり。

食べ盛りの若い従業員のためだけど

それは、誰が食べてもいいルール。


私は

枝豆の入ったのが好き❤️

いつも、もらってくる。

それも沢山🍙

遠慮?しないのが私の流儀。


ご主人が亡くなった時

たまに思いだしては

淋しい、淋しいと泣いていたナミさんに

抱きついてきた息子さんは

お母ちゃんがいるから

僕はさびしくないよ、と

言ったらしい。


それが

ナミさんの生きる支えになった。

何があっても生きて行くと。



ナミさんは

81歳の時、道を歩いていて転倒し

頭を打ったことで

頭部骨折して入院した。


それから認知症を発症し

少しずつ進行したらしい。

息子さん、は

ナミさんの中でのみ

" 生きて " いる。


ナミさんの娘さんは

同じ医者のご主人と結婚し

子どもは出来ないまま来て

離島の医者として

あちこち転々としながら

地域医療に携わって来た。


そんな人生に

満足している娘夫婦は

ナミさんを老人ホームに入れた。

そこは、頑張り屋のナミさんを

よく知る職員さんがいるらしい。


認知症になってから

10歳くらい若返ったナミさんは

息子自慢の日々を送っているが

職員全員は分かっている。

ホームの中では、喜友名諒氏は

ナミさんの息子さんだ。


毎日毎日届く

琉球新報と沖縄タイムスを

端から端まで目を通し

喜友名諒氏の写真があれば

職員に切り抜いてもらう。


ナミさんの

亡くなった息子さんの名前は

奇しくも、淩 ( りょう )

漢字は違えど

口から出る名前は

まるきり同じ。


国頭 ( くんじゃん ) のことは

忘れても

息子さんのことは忘れていない。

きっと死ぬまで

忘れることは無いだろう。


ホームの部屋に飾られた

喜友名諒氏の切り抜きに見守られて

安心して眠るナミさんは

実は、生まれつき心臓が悪い。

骨折して入院した時に

分かったらしい。


ナミさんの後ろに

息子さん、ニコニコして

いつもいるのよ。

面会に行って来た明美姉さんが

ポツンと言っていた。


あの世で再会出来るまで

そばに寄り添うのか。

心優しい息子さんなんだと思った。

晴明 ( シーミー ) の時期には

いろいろあるみたいよ。


私なんて

亡母の10回忌を

すっ飛ばしたまま忘れていた💧

気がついたら3か月も過ぎていた。

でも、大丈夫👌

いつも一緒だから✨