113系が運転開始から60年 | 鉄道とバスのブログ

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 113系が1963年の運転開始から今年で60年を迎えた。

113系の登場から現在までの変化を解説しよう。


制作の経緯

湘南電車には1950年代末期から1960年代初頭にかけて80系と153系が使用されていたが 両者は片開き片側2ドア・デッキ付き構造で、通勤客増大の中、混雑時の客扱い能力に難があり、各駅で円滑な乗降が不可能となっていた。そこで打開策として80系のデッキ撤去と3扉化の改造が考えられ、図面まで作成された。だが、当時は山陽線や信越本線の電化区間延伸を控えていて、車両を大量に改造する必要があり、その費用がかかって不得策と判断された。101系を基とした4扉セミクロスシート車(踊り場に補助椅子もある)投入も検討され、こちらも図面まで作成されたが、これでは近郊型としては居住性にすぐれないと判断され、最終的に401系や421系の設計が好評だったことに目をつけ、3扉の111系が新たに開発された

111系を基に、120kWに出力が強化されたMT54形主電動機を用いた形式として1963年12月に登場したのが113系である。1963年12月から1982年にかけて2,943両(サロ124・125形を含めると2977両)が製造された。

JR発足後

1987年4月1日の国鉄分割民営化により、JR東日本に1566両、JR東海に438両、JR西日本に772両、JR四国に12両と、事故廃車となった9両をのぞく計2788両が承継された



 運転

関東地区(国鉄時代)

東海道本線東京口では、1962年6月より111系の営業運転が開始された。当初は東京- 沼津間を主体に運用された。111系の投入で捻出された80系は、東海道本線名古屋口・大阪口の客車列車の電車化などに転用された。1963年には伊東線の新性能化用に113系が投入され、その後も順次増備された。

80系と併結していた郵便・荷物号造車のクモユニ81形に代わり、新性能電車の111系・153系と併結運転が可能な郵便荷物車として、72系の改造による クモユニ74形が投入された。当初は111系の車体構造を基本に前面非貫通としたクモユニ111形 の新造案も計画されたが、クモユニ74形の改造投入となったため計画のみに終わっている。

1966年10月のダイヤ改正では、113系による豊橋発東京行きの夜行列車も設定され、1968年10月のダイヤ改正で153系による144M列車(大垣夜行)となるまで運用された。

登場当初より大船電車区と静岡運転所に配置されたが、1980年の横須賀線分離の際に新設された国府津電車区へ移管され、後に田町電車区にも新製配置された。

1980年10月のダイヤ改正では、急行「伊豆」と朝夕の通勤輸送に使用されていた153系の老朽置き換えのため、113系2000番台と185系が投入された。113系はラッシュ時の153系普通列車の運用を置き換え、185系は急行「伊豆」を格上げした特急「踊り子」を中心に運用された。

1981年10月のダイヤ改正では東海道線東京口に2000番台が投入され、グリーン車はサロ110形0番台の老朽化による代替として1200番台が増備された。

1986年3月のダイヤ改正より、近郊型電車の後継となる211系が東海道線東京口で運用を開始した。

JR発足後

1987年の分割民営化当時は最長で浜松まで直通したが、その後静岡までに短縮され、2004年10月改正で沼津までの直通となった。

東海道本線東京口の113系は、2004年10月から2006年3月17日にかけてE231系に置き換えられた。多くは廃車となったが、車歴が浅い一部の車両(94両)は幕張車両センターに転属された。また、その際に捻出された2階建グリーン車は東海道本線用のサロ212・213形100番台、宇都宮線・高崎線用のサロ212・213形1100番台へ改造され、211系に順次連結された。

なお、最後まで運用されたのは基本編成4本(K47・51・57・69編成)と付属編成5本(S81・96・102 - 104編成)の計64両であった。最後まで残ったS96編成は同年4月26日に長野総合車両センターへ廃車回送され、東海道本線東京口の113系は消滅した。

横須賀線

111系は東海道線に続いて横須賀線にも投入され、1962年10月に営業運転を開始した。当初の塗装は東海道線用と同じ湘南色であり、誤乗防止のため「横須賀線」のヘッドマークが掲出されていた。

1964年2月には出力強化型の113系が投入され、横須賀線・伊東線で営業運転が開始された。捻出された70系は、横須賀線の編成数増加や新潟地区の普通列車用に転用された。

横須賀線では増備途中より青15号とクリ-ム1号の横須賀色(スカ色)が採用された。当初の横須賀色は湘南色と同じ塗り分けであったが、窓部のクリーム色が目立ちすぎるとの意見から、以後の増備車よりクリーム色を狭くした塗り分けに変更されている。

従来12両編成であった横須賀線は、混雑緩和のため15両編成化されることとなった。逗子駅より先は15両編成の入線が不可能であり、逗子駅で増解結を行うこととなったが、逗子駅での久里浜方にある留置線確保の観点から、下り方(久里浜寄り)に付属4両編成、上り方(東京寄り)に基本11両編成の組成となった。1965年には久里浜方基本10両・東京方付属5両の暫定15両編成での運転が開始され、1968年までに付属4両+基本11両の編成への組成変更が完了した。

1972年7月のダイヤ改正により総武線快速線の東京地下線が開業し、1000'番台が総武快速線で営業運転を開始した。当初は東京 - 津田沼間での運転が主体で、一部が成田・上総一ノ宮・君津まで乗り入れた。翌1973年には、直通運転を考慮して横須賀線にも1000'番台が投入され、捻出された113系0番台が名古屋地区や関西、岡山地区に転用された。

1976年10月には、総武快速線の東京- 品川間の地下線が延長開業した。1978年に成田空港の開港に伴い、総武快速線の一部列車が13両編成に増強され、混雑の緩和が図られた。

1980年10月のダイヤ改正で東海道本線と横須賀線の線路が分離され、横須賀線と総武快速線は横須賀.総武快速線として直通運転を開始した。これに伴って2000番台と1500番台が新製投入され、総武快速線はグリーン車を含む15両編成に増強された。1981年7月に総武快速線の津田沼 - 千葉間の複々線化が完成し、同年10月のダイヤ改正で1500番台が増備された

1994年から1999年にかけてE217系に置き換えられ、横須賀・総武快速線での113系の運転は終了した。一部編成が房総地区や東海道本線東京口のほか、E231系が投入されるまで暫定的に小山電車区に転属して宇都宮線でも使用されたことが あった。

房総地区


1968年7月に千葉-木更津間が電化された房総西(後の内房線)は、翌1969年7月に千倉まで電化が延伸され、普通列車に113系1000番台が投入された。配置は津田沼電車区であった。その後も外房線・総武本線・成田線

東金線・鹿島線の電化により113系の運用範囲は拡大された。



1969年 - 1971年の夏季輸送で臨時 急行「うち房」にも使用された。

1972年7月の総武快速線の開通と同時に、房総東線(後の外房線)が電化された。これに備えて1000'番台が登場し、同年に新設の幕張電車区に配置された。夏季の房総半島の海水浴客輸送の臨時列車として、快速「白い砂」「青い海」が113系により運転された


1974年には首都圏に0'番台と1000'番台が投入され、捻出車は房総地区と山陽地区に転用された。房総地区への転用は総武本線の佐倉 -銚子 間と成田線・鹿島線の電化に伴うもので、同年10月より普通列車の電車運転が開始された。

1986年3月には、房総地区の113系の配置区所が幕張電車区に集約されている。

1986年11月の国鉄最後のダイヤ改正では、短編成化と列車増発により静岡運転所、網干電車区、日根野電車区からもクハ111形が転入した。横須賀色へ塗装変更されるまでの一時期は、湘南色や阪和線快速色との混色編成も見られた。

末期まで113系が使われていたのは全て千葉支社管轄の千葉県内の総武本線(千葉以東)・成田線(成田 - 我孫子間を除く)・内房線・外房線であった。成田線成田 - 我孫子間の運用は103系への置き換えが進められ、113系の運用は1998年3月14日の改正で消滅している。

総武快速線の両国 - 千葉間では、内房・外房線方面へ向けて新聞の夕刊を輸送する新聞電車(2331M)として走行していた。新聞電車は1996年12月に従来のクモユニ143形から113系での運用に変更され、夕刊発行日の平日・土曜日に定期列車として両国- 千葉間で運転されていた。総武快速線と東海道線の113系運用終了後は

東京都内へ乗り入れる唯一の113系運用となっていたが、2010年3月のダイヤ改正で廃止された。

新聞電車は千葉駅到着後、外房線方面14時11分発安房鴨川行き、内房線方面14時28分発安房鴨川行き(いずれも4両×2の8両編成)に分割されていた。なお、夕刊の発行されない日曜日・祝日・年末年始は運休し、このような場合は幕張車両センター- 千葉間の回送列車として運転され分割されていた。なお、いずれにしても千葉駅は外房線ホームに到着し、内房線用車両は切り離された後すぐに回送列車となり、一度稲毛付近の黒砂信号場に回送後、改めて内房線ホームに入線していた。

2005年以降に東海道本線から撤退した車両、2006年秋以降に宇都宮線

・高崎線から211系への置換えがそれぞれ行われた。初期車に関しては、国府津車両センターからの車歴の若い車両によって置き換えられた他、E231系の増備で捻出された211系3000番台が高崎車両センターから転入し、2006年10月21日から運用を開始した。その後、京浜東北線から転用された209系2000番台により、211系よりも先に置き換えられ、営業運転は2011年9月1日に終了した。

同月23日と24日にマリ116編成とマリ217編成を用いたさよなら運転が行われ、10月15日には同車の長野総合車両センターへの廃車回送を兼ねた団体臨時列車「さらばスカ色113系 房総から長野への旅」が、JR東日本で最後まで残ったマリ116編成を用いて運転された。マリ116編成は運転翌日の10月16日付けで廃車となり、JR東日本から113系が消滅した。

2011年に廃車となった湘南色クハ111-249は、前頭部のカットモデルが長野総合車両センター内にある長野スキルアップセンターの訓練用教材として設置された。

その2へつづく。




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