家族を乗せて愛車のハンドルを握りガレージを出ました。その第一印象は住み慣れた街の景色が変わっているのです。映画のゴジラが通った後の様な風景でした。その上に何故かただただ静寂でした。音が出るのはカーラジオだけ。電気、水道をはじめ全てが停止。人々も寡黙でした。正に声も出ないのです。ひび割れた道路、倒れた電信柱、落ちた橋、崩れた家屋。車で普段の道を走れないのです。その中を通れる道を探しながら家族と家内の実家に早く行きつかないとの思いで西宮市と尼崎市を分ける武庫川までたどり着きました。驚いたことに武庫川を渡ると尼崎市なのですが家内の実家につくと平和な日常が有ったのです。
義父がテレビを見ながら地震は?と何もなかったように聞くのです。立った10数キロしか離れていないのに安心しながらも我が目を疑いました。危機管理面での反省は数えきれません。午前6時前の震災発生で自衛隊への災害出動要請が10時頃との報道がある。通信できなかった。要請権は知事にあり自衛隊は要請が遅かったと責任の所在が不明。災害地から数キロの兵庫県伊丹市には陸上自衛隊中部方面隊総監部の大部隊の駐屯地がある。神戸市に姫路からの救助部隊が出動したのは13時である。当時首相は自衛隊嫌いの社会党村山首相。官邸に災害の画像が届いたのは午後2時との情報もある。初期活動が迅速になされていれば多くの命が救われたのは間違いありません。近所の全壊した家屋から助けを求める声を聞いた人は少なくありません。どんなに人々に無力感と忘れられない悲しみを味わせた事か。 市立体育館に並ぶ夥しい棺桶群、止まらない涙と泣き声。24年経っても行政者の責任を糾弾したい。
丁度、僕は自分の会社が大阪での展示会、翌週は東京での展示会を予定してました。大阪方面は揺れたとは言え大阪の事務所に大阪住まいの社員達は出勤してきた位ですから温度差は武庫川を境に正に天国と地獄でした。
でも残された多くの人々の生活は遠慮なく続きます、配給される冷たい弁当を食べながら真っ暗な部屋で一人過ごす日々が続きました。やっと自宅にガス、電気、水道が復帰してお風呂に入れた時の喜びと感謝。いつの間にか幸せ過ぎる毎日を忘れていたのです。生きているだけでも幸せなんだと心に深く刻みました。記憶は時間と共に遠ざかっていきます。節目にこうして今一度あの日をふりかえるのは犠牲になった方々の分も生きる私の義務だと信じています。人生は楽しいことばかりではありません、でもあの日から学んだ不屈の精神と感謝の気持ちを今一度思い出して今日から気持ちを正しく持って毎日を大切にして人生を続けてゆきます。深く黙祷。
おまけ ① 普段は俳句ですが今日は特別に16日の歌会始で朗誦された天皇陛下の歌をご紹介します。震災当時小学校6年、加藤はるかさんの自宅跡にその夏咲いた「はるかのひまわり」を歌われました。鎮魂と復興のシンボルになった花の種を御所で育てておられるのです。
「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」
明日からの自分に負けずに生きていきましょう。今日は少し暗いお話しになりましたが人生は冷たい日もありますご容赦下さい。
