ひろゆきさんの、
「お金が無くなると、IQが落ちます。」を、違う人から補強する記事を見つけました。
貧困は“文化”であると、御田寺 圭(みたてら・けい)さんは考えています。
【文筆家・ラジオパーソナリティー 会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。】
定番化したネットの大論争「カップ麺は節約か否か」
「先日も、コンビニでフルプライス(231円)のカップヌードルを節約のために購入したというツイッターが炎上した。貧しい人はスーパーで袋麺を買う、といった批判が多かったが、そう怒っている人が理解していないことがある」
批判や非難の声が相次いでいた。
「そもそもカップ麺は高級品だ」
「貧しい人はカップ麺ではなく安い袋麺を買う」
「レジ行く前に値札見るだろう」
「コンビニよりスーパーの方がカップ麺を買うにしてもいくらか安い」
「普段から節約する人からすればありえない感覚」
「貧乏人の解像度が低い」
しかし、御田寺さんは思う、「「貧乏人の解像度が低い」のは、どちらかといえばこの投稿者に怒りのコメントを寄せている人のほうなのではないか」。
< スーパーの方がコンビニより安い。ついでに言えばカップ麺より袋麺の方が安い。間違いなくそのとおりだ。正論である。
<だが、そうしたお得な情報を持っておらず、あるいは行動する意思がそもそもないからこそ貧困に陥っている人は少なからずいる。そうした人は、スーパーとの値段を比較することなく住まいの近くにあるコンビニを訪れて「節約のつもりで」「値札をとくに気にせず」カップ麺を購入してしまう。
< 「愚かだから(合理的判断ができず)貧しくなる」だけでなく「貧しいから(合理的判断ができず)愚かになる」という機序も明確に存在して、貧困層をますます貧しくしてしまうのである。
< 怠惰でもなければ愚かさでもなく「貧しい生活によって生じる心理的ストレス」が人びとから経済的に合理的な判断能力を低下させ、みずから貧困のループを作ってしまう。
「貧すれば鈍する」とは昔の人はよくいったものだ。
< 貧困層がしばしば非合理的な行動――たとえば、スーパーでなくコンビニに行って特売でもないフルプライスのカップ麺やレトルト米を節約しているつもりで値札もろくに確認せず購入してしまうような行動――をとってしまうのは、かれらが逼迫ひっぱくした生活を送っていることによって脳内の認知的リソースの余裕がなくなり、その結果として「バカになってしまっている」からだ。
< 貧しさそれ自体が頭をわるくし、豊かさそれ自体が頭をよくする――結果として貧困層と富裕層の経済的・文化的・認知的格差はさらに開いていく。
崇徳院ヴェストが感じることは、
社会派とか自認している人たちは表面しか見ていないこと。
また、それに呼応する人たちも同類である一般大衆。
たぶん、そんなところにも既に貧富の差が如実に表れているのだなぁ~と。
学歴やマウンティング族よりも、Financial Literacyが人生の豊かさにつながる。
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