遠い昔、私が高校2年生の時のクラス担任は現代国語の先生だった。
そして夏休みの課題として感想文を書く対象に言い渡された本が、池田 潔 著の「自由と規律」。
今、この本の内容や、自分がどんな感想を書いたかなんて一言も思い出さない。
きっと、この手の方面は生理的に受け付けないのだろう。
だが、ハッキリと覚えているのは、担任の魂胆。 これは推察でしかないが。
通っていた高校は公立だったが、制服や鞄の指定もなく、自由度の高い学校だった。
文化祭が、とても嬉しく、楽しんでいたことは憶えている。
そういった校風だったから、「自由」を渇望し、運動することや教師陣と対立することもなく、
もうそこにあることが、普通だった。
だから担任は、「自由」を享受している中にもルール、つまり「規律」は必要であり、
必ず対(つい)で存在するものだと、少年少女に刷り込みたかったのだろう。
ルールが緩くなり過ぎたり、ないがしろになっていくと、「自由」も失われるよと。
そんな管理社会は生理的に受け付けないが、社会に「規律」が必要な事は自明の理。
そして今、周りを見て感じるのは、「自由」と「ワガママ」を履き違えている輩が妙に多いこと。
それは、老若男女を問わず。
自分を律することが出来ない。
別の言葉では、自分しか存在していない世界の住人。 物心つく前の幼児。
若ければ、まだ学んでいく機会もあるだろうが、
60を超えたような輩は市民的成熟を遂げることは不可能。
社会の障害物と化した厄介者。 自分を賞賛する山根明と同じ穴の狢か・・・
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