前回の「発達障害って難しい」の続きです。総称としての発達障害を知った、同じ2005年頃に「膝を打った」言葉、それがマイノリティ。
真っ先に浮かぶのは、直訳通りの「少数派」。例えば、アイヌなどの少数民族、左利き、LGBT、在日外国人やハーフ、文化・宗教・思想などの少数団体、等々。そして、少数であるが故の典型、それは弱者でしょうか?。例えば、疾病患者、被害者、被災者、そして遺児などの残された家族、等々。
でも、「膝を打った」のは、日本語の少数派にはない、マイノリティが持つ「社会的」の意味。
「社会的」が内包する「権力」の部分に着目した、弱者であるが故の被差別。例えば非正規社員、人数的に少数とは言えない皮肉!。男が差別されるケースも含めて、男が作った仕組みによる男女差別も同様。もはや、「権力」を突き詰めると、少数派はどこへやら。在日外国人に対する意識が、人数ではなく母国で判断しがちなのは、意識する側の権力に対する認識。少数派が結束して人数が多数になっても、決してマジョリティにはなれない。
そして、弱者の典型と言えば障害者(本当は別の表現を使いたいのですが)。前回触れた発達障害者の他にも、2016年に19人の命を奪われ多大なショックを受け続けている知的障害者、身体障害者、視覚障害者、聴覚障害者、言語障害者、自殺・うつ・引きこもりなどを含む精神障害者、食物アレルギーなどの免疫疾患者、等々。
最初に出会った障害者は、在学中の頃の聴覚障害者。彼に紹介された団体で手伝ったことがあります、卒業で引っ越してからは疎遠になりましたが。その団体で、指文字を描いた名刺大のカードを渡されて覚えたものでしたが、その時に手話を覚えていたらと思うとチョット残念。
また、視覚障害者に教えていただいた教訓は、「目からうろこ」でした。盲導犬への対応はご存知の方も増えていると思いますが、白杖を持っている方への対応はなかなか認知が進みません。困っている様子を見た時、手を引いたり肩に触れる様な誘導は厳禁!、視覚障害者が腕や肩を掴める様に差し出すんです。目を閉じて同じことをされたらと、相手をイメージする習慣がとても大事ですね。
マイノリティの意味を考え始めて10数年。若い頃は一様に同情していた私、今は一人一人をイメージし、違いを理解して共感しようと意識しています。感じ方は人それぞれ違うし、障害の程度と不幸の程度は比例するとは限らないんですから。同時に、「理解しよう、共感しよう」なんて傲慢?、謙虚に「教わり」続けるしかない?、との迷いも。
例えばLGBT。EテレのETV特集「多様な性をめぐる戦後史」を見た時、同情どころか偏見の目で見ていた当時の記憶が蘇ってきてゾッとし、見るのが辛くなっちゃいました。今は発達障害同様に認知が進み、カミングアウトした遠戚の女性は、TV撮影スタッフとして多くの男性と一緒に働いているそうです。番組を見た後で一晩語り明かす機会があったんですが、トランスジェンダーと一括りにできない心の一端を垣間見た思いでした。でも、最後に語った「本当に理解して貰えるとは思ってないです」が本音かなぁ?。
未だに整理がつかず、読み返したら羅列しかできていませんね。でも、例え羅列でも、誰かの目に留まればいいなぁ、考え続けてきて少しは進歩したかなぁ。そんな、奥が深くて難しいからこそ、私のセカンドライフの一つにしたい気持ちが徐々に強くなっています。でも…。今までは他人のプランに乗っかってただけの私、具体的にどうしよう?、自閉症もそうですが良かれと思った支援が裏目に出るかも知れないし…。やっぱり、もっともっともっと知ることからかなぁ?。
サイクリング中に見た川沿いによくある竹林(↑)、その中にポツンと!。チョット分かり難いですが、河岸は深く切り立ち河川敷はなく、護岸工事は下半分だけで自然のまま蛇行、上流域でしょうね。なので、どう見ても人間が植えたとは考え難く、近くから自生したのでしょう。健気に頑張ってる姿に、マイノリティが重なっちゃいました。
