府中・京王線沿線の家庭教師、戸田朝海です。
「明日ママがいない」
というドラマの内容について
抗議が殺到しているそうです。
私は家でTVを観る習慣がなく
そのドラマも観ていないので
内容について何か言うことはできません。
ですが、この問題を外から見ていて
ふと思うことがありました。
それは、抗議する人たちの
言い分の中にある
「情報発信者は、受け取り手の
気持ちに『配慮』すべきだ」
という意見。
私自身も、いちブロガーであり
ブログの記事やFBなどを通して
「情報発信」する立場にいます。
そして、私もこの方たちと同じように
「伝える人間は、読み手の気持ちに
配慮した発信の仕方を工夫すべきだ」
と思ってきました。
自分なりには
それを努力してきたつもりでおります。
また、そういう意見も言ってきた
記憶もあります。
ただ、ここでふと
疑問に思うことがあったんです。
『配慮』とは
どの程度可能であろうか?
言うまでもなく
全世界の全ての人間に配慮して
発言することなど不可能です。
以前、震災が起きたときには
被害のなかった地域に住んでいる人が
遊びや楽しいプライベートの記事を
書いたりすると
「被災地にいる人たちは
楽しみどころではないのに不謹慎だ。
被災者の気持ちに『配慮』せよ」
という批判をする人たちが相次ぎ、
ネット上では「不謹慎厨」と呼ばれて
揶揄や非難の対象になりましたね。
それは極端な例としても
例えば「ケーキ食べて幸せ~」と書けば
「世の中には充分に
食べられない人もいる」
とか、
「世の中には死にたいほど
不幸を感じている人もいる。
そういう人たちを傷つけるような
ことは書くべきではない」
とか
「私はケーキは大嫌いです。
気分が悪くなるような話はやめて下さい」
とか、そんなことまで配慮して
書かなければいけないとなると
もはや「何も書いてはいけない」
ということになってしまいますよね。
これはね
「だから読み手のことなど気にせず
何でも思ったことを書くべきだ!」
と言いたいわけじゃありません。
やっぱり「配慮」は
あった方がいいとは思います。
ただ、現代はよくも悪くも
情報過多です。
明らかに、情報の受け取り手よりも
情報の発信量の方が圧倒的に多いですよね。
ですから、これからの時代は
受け取り手側の
「受け取り力」
みたいなものが試されるように
なってくるんじゃないかな、と思います。
(「受け取らない」力も含めてです)
現代の情報量は膨大です。
過剰と言ってもいいです。
その中には、いいものも悪いものもあり
常に、受け手に「配慮」されているものとは
限りません。
その上、情報は受け取り手本人が
望むと望まざるとに関わらず
常に発信され、勝手に目や耳に
届いてきます。
それに対して
「私が迷惑だから情報発信しないでくれ」
と抗議して止めようとするのは
現実問題として非常に難しくなっている
と思うんです。
ならば、受け取り手側にいる私たちが
情報との「付き合い方」を変えていく方が
建設的なのではないでしょうか。
以前からも
情報化社会に向けて
「情報の取捨選択が大事」とは
言われてきました。
これからはそれ以上に
「得たい情報」と「必要ない情報」を
自分で判断し、選別する力
そして、
必要な情報は「自分で探す力」
いらない情報は「見ない」
もしくは「見ても受け取らない」
そういう力を身に付ける必要があるな
と思いました。
あ、もちろん
明らかな悪意をもった情報や
ルール違反に対しては
抗議の必要はあると思います。
「廃止」を求めてもいい
情報もあります。
つまり、「情報」に対しても
ただ受け身になって
「あの情報はいらない」
「この情報は見たくない」
と、発信側に求めるばかりではなく
自らが主導権を取って
付き合い方を変えていく(選んでいく)。
そういう時代が来ているのではないかな
と思いました。
情報に振り回されるのではなく
情報を「使う」人間になりたいですもんね。
その為に必要な努力を
これからはしていこうと思います。
戸田朝海でした。
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