自慢することによって、

相手にスゴいと思って欲しい、相手に勝ちたい、自己重要感を満たしたい、という承認欲求や、
自分の価値をアピールすることで、人から大切に扱われたい、嫉妬されたい、後悔させてやりたい、という制御欲求を

いっとき、満たしたとしても、自分のことを好きにはなれない。
自分にとって未知のこと、つまり成功体験のないことをしようとする時。
または、過去に失敗をしたことと同種・類似のことをしようとする時。

頭の上の方(私の場合、頭頂部のやや左)から、エゴの声が聞こえる。

ここでいうエゴは、(学問的に不正確かもしれないが)原始的な、安全欲求、承認欲求、制御欲求を満たすために機能するもの、をいう。

このエゴのプラスの側面は、未知の経験を回避するなどの方法によって、生命身体・精神・社会生活の安全を守ること。変化しないメリット、とも言える。
他方、マイナスの側面は、チャレンジを妨害することで、変化が生じないこと。どこかで読んだ言葉だが、「見知らぬ天国へ行くよりも、慣れ親しんだ現状の地獄にい続けることを選ぶ」。

チャレンジをさせないために、エゴは言う。
「そんな甘い考えでやっていけると思ってるの?自分にそんなに価値があると思ってるの?」
「ダメダメ、前にも手酷く傷ついたでしょ?また傷つくよ、止めときなさい」

具体的には、よりもっともらしい言い方の時の方が多い。「普通はこうなんじゃないの」「周りがどう思うだろう」「また恥をかくよ」「もう大人でしょ?」などなど。
周囲や世間の判断基準を持ち出すのが得意技だ。
エゴの声の巧みさは、一瞬、エゴの声ではなくて、直観が降りてきたかと勘違いしてしまうほどだ。

直観と違うのは、エゴは消極的で変化を嫌うが、直観は積極的でチャレンジを好む。


また、エゴは、「やっぱり失敗した」と言いたいがために、あえて無謀なチャレンジをさせようとすることもある。これには、気を付けなければならない。
例えば、恋愛関係を破壊するような強烈な台詞を言わせる。
相手が傷ついたり呆れたりして私の前から去ると、「ほら、やっぱり、あの人も私を見捨てた」と言うエゴの声が、聞こえてくる。
全くおかしな話だが、そうすると、悲しいと同時に、心のどこかで、以前のパターンどおり(元々は父が突然死したことに起因して、見捨てられ不安が植え付けられたのだと思う)であることに、ホッとする自分(エゴ)がいるのだ。
これまでの人生で身につけた、「男の人は、いつか私を見捨てる、だから傷つかないよう自己防衛しなければならない」という信念を強化する。これにより、エゴは、私の精神の安全を守るという存在意義を果たすのだろう。

また、エゴは、葛藤(頭の中の会話)とも違う。
葛藤の場合は相反する感情がほぼ五分五分の力関係でぶつかり合っているが、エゴは、まるで天の声のように抗いがたく一方的だ。

葛藤を手放すことは上達してきたように思うが、エゴを手放す、エゴから距離を置くことは、なかなか上達しなかった。
上述のとおり、エゴには心身の安全を守るというプラスの側面もあるために、なかなか上手くいかなかったのかもしれない。

けれども、ある日、エゴの声が聞こえた時、その声の大元となっていると思われる子どもの頃の体験を、巻き戻してイメージした。
追体験ではなく、記録映画を観る観客のように、幼い自分も登場人物の一人として観た。

そうすると、子どもの頃の体験はとても辛かったけれど、今の大人の自分は、それをもう乗り越えられる、ということに、しみじみと納得した。
同時に、子どもの自分に対して、知恵も経験もなく辛かっただろうに本当によく頑張った、ありがとう、という気持ちが湧いてきた。

もしかするとエゴも手放すことができるのかもしれない、あのエゴの声にもう従う必要はないのだ、と思った瞬間だった。
うわあ、美味しいところ持っていくな~、と思うことがあった。

それは、その人の人徳、その人の持っているタイミングの良さ、硬い決意などによるもので、ズルい、とかいうことではないんだけれど。

何でも手に入れる人はいるんだなあ、と思った。

私は、そういう人生を選ばなかった。
選びたい気持ちはあったけど、なんだかんだと言い訳して、何でも手に入れることに伴う努力と責任を回避してきた。

そうすると、大局を見据えた目標がないので、目先の小さな利益(小さなお金を得たり、ちょっとした手間を省いたり、勇気を出さないですんだり、自分で責任を持たないですむこと)を得るために、動いてしまう。
結果、自分の成長に繋がらない。
公私にわたって幸せになりたいと渇望しつつ、それに伴う努力と責任などの負担を背負うのはイヤだった。

その人を見て思うのは、 やはり、家族を持っている人は強い、ということ。
家族を守るために、強くなれるし、家族に支えられているから、強くなれる。
 
頭が良くて感性の鋭い人だから、私が心の中で「美味しいところ持っていくなあ」と一瞬思ったことも、気がついただろう。

気がついても、あえて気が付かないふりをして、礼節と適切な距離は保ちつつ、親しみを維持する。
ここまではできるけど、これ以上はできない、とキッパリ線を引く。

完敗だなぁ、と思った。

と同時に、

私も、そういう風になることを選択して良いのだ、と気付いた。
                                                                                                                         
つい最近知った受け売りだが。

「優しい人」とは、「人の憂いに寄り添う人」なんだそうだ。

読んで字のごとく。


漢字って、よくできてるわあ~
自分には芸術の才能がないと努力もせずに自分を見切って、とりあえず、大学に行って、何かしたいことを見つけよう、と受験勉強に勤しみ、

大学に入学したものの、浮かれ気分で、憧れのリア充(当時はそんな言葉はなかったけど)になりたい、そのためには何をするにもお金が必要、とアルバイトをし、社会との関わりで揉まれ、遊びを少し覚え、将来何がやりたいのかなど考えないまま、興味のあった業界は初めから無理と受験もせず、何となく就職、

一応のお給料を貰い始め、日々の仕事と職場の人間関係や飲み会や海外旅行などに追われ、何がやりたいのか考えることをあえて棚上げして結婚し、

膨大な時間をもてあまし、結婚に逃げたらもう逃げ場はないのだ、と薄々気が付いていたが、再度働くことによって、時間を潰し、より少なくなったお給料を貰い、

結婚を維持するのをやめ(二人とも自分を見つめる作業から逃げていたことが、大きな要因かと思う)、生活の糧を得なければならず、再度キャリアを構築するためには資格を取るしかない、と思い、ロースクールに通い勉強し、

合格して、修習に行き、

それでも、弁護士が自分のやりたい仕事だ、とは思えなかった。

ああ、この仕事は、私には向いていないと落ち込む日もあるけれど、私のやりたいことだったんだ、と思うようになったのは、実際に、実務に着いてからだ。

でも、たぶん、弁護士に固執はしていないんだと思う。
いろんな人の生きざまに関わるのことができて、自由な仕事で、自分の心に曇りなくできて、納得の行く報酬を得られるのであれば、何でも良いと思う。

つまり、具体的な「やりたいこと」は、未だにない。

ただただ、自分らしくありたい。
それが、やりたいことだったのだ。
バツイチ独身で、嫌だなあ、不便だなあ、と思うこと。

①周囲に気を使わせる
・パートナー同伴の集まりに顔を出しにくい
・何となく、「気の毒な人扱い」
・親戚や既婚の友人などに心配をかけている

②周囲の心無い対応がイヤだ
・独身男性のそこはかとない警戒心が伝わってくる(狙ってないから安心して!)
・既婚男性に不倫目的で言い寄られる(ただし、弁護士になったおかげで減った)
・離婚理由を根掘り葉掘り聞いてくる人がいる
(デリカシーのない人には教えないもんね~)

③家事、車の運転、買い物、電化製品のセッティング等々を全部やらなければならない
(我ながらものぐさぶりが男のようだ)

④老後が不安な時もあった
(心配ばっかりしても仕方ないし、結婚してたって自分が一人残る可能性は高いし)

⑤日々の何気ない出来事(後に「幸せ」というのだろう)を分かち合える家族がいない
(やっとまともな理由が!
   でも、今更、そこまで濃い人間関係を築くこが面倒な側面もある。呟きたければネットもあるし。近くに親友がいれば尚更、面倒になる)



そして、イヤなこと、不便なこと、時には寂しいこともあれど、やっぱり一人は自由なんだよなあ。
物事には、必ず両側面がある。

でも、月並みだけれども、お互いに、嬉しいことは2倍に、悲しいことは半分になるような、そんなパートナーとなら、暮らしたいと思う。
昔の漫画「東京大学物語」の村上クンじゃないけれど、頭の中でゴチャゴチャといろんなことを考えることが多い。
意識的にも、無意識的にも。

意識して、何かを分析するのは、仕事や生活に役に立つことも多い。例えば、メリットデメリットの分析や、法律構成を複数検討する、など。

ただ、無意識的に行っている、頭の中の会話は、知らず知らずのうちに、心を傷つけ、ひいてはストレスとなり身体も傷つけてしまう。

私の中でよくあるのが、意地悪な気持ちになったとき。
最初に、自然に感想が浮かぶ。たとえば、「あの人、バカじゃないの」だとする。
直前に、非難対象をバカだと判断した理由となる事実を観ている。

そうすると、頭の中で会話が始まっている。
「人をバカにするのは良くない」
「何か他に事情があるのかもしれないよ」

「いやいや、バカでしょ、十分」
「こらまで私、バカだと判断するのを結構我慢してきたし」

「そんな意地悪なこと思ってたら、口に出さなくても顔に出るよ」
「嫌われたり、周りの評価が下がるよ」

「人がどう思おうと、私は私だから構わない」
…等々。

相反する思いが、どんどん湧いてきて、頭の中で、天使と悪魔のケンカのように、うるさい会話が始まる。
つまり、葛藤する。

ほんの小さな葛藤でも、自分の気持ちに気づいて、認めることによって、ずいぶんと楽になる。

葛藤に苦しまないで済んだ分の時間やエネルギーを、ポジティブな、生産的なことに使うことができる。
それこそ、声高に「自分は正しい、何故ならば…」などと主張しなくても、自然に、「自分は自分」と考えることができる。

最近は、人からどう思われるか・評価されるかに腐心して、苦しそうな人をよく見かけるので、かつて同じだった身からの意見を書いてみた。
今年初の桃を食べた。

私は、白桃が大好きだ。
甘い芳香、包丁を入れただけで溢れだす瑞々しい果汁、柔らかく熟れた果肉の歯応え、丸くて可愛らしい形、白とピンクの絶妙のグラデーション。
この季節にしか味わえない風味。

桃を食べながら、唐突に思った。

ああ、きっと、私は、死ぬ間際、もし季節が春や秋や冬だったなら、桃をもう一度食べたいと願うのだろう、と。

3月末から4月上旬よりも前の季節なら、桜を見たかった、と願うのだろう。

そして、何かに感謝しながら、逝くのだろう。
お酒を飲めた、とか、枇杷を食べた、とか、紅葉を見れた、とか。


不意にこんなことを思い付くくらい、歳を重ねた。

折り返し地点まで来たのだ。
裏の意図のある言動。

例えば、

(「まだまだ若いよー」などと言ってもらって自己の承認欲求を満たしたいがために)「もう年だからダメだ」と自分を卑下してみたり、
(「大丈夫ですよ」と許可を貰って罪悪感を消したいがために)謝罪してみたり、
(ありがとう、と感謝して欲しいがために)親切にしたり譲歩したり。

私も含めて、みんな、多かれ少なかれやっていることだと思う。


不思議なことに、こうした裏の意図は、本人は表立っては言わないのに、周りにはバレてしまう。口調から、行動から、ちょっとした表情や仕草から、バレる。

裏の意図がある言動は、心からの謝罪や親切とは、何かが違う。具体的に何が違うのか説明は難しいが、明らかに違うことだけは分かる。
きっと、人間は、他人の裏の意図、隠された要求に敏感なんだろう。

もちろん、裏の意図を察知しても、大抵は、相手の裏の意図には気づかないふりをして、相手の望む答えを言う。社交辞令なのかもしれないが、それで世の中上手く回るのだから。

ただ、どうしても、相手の裏の意図に迎合できない時がある。
それは、大別すると、
①相手の言動が法や道徳に反しているとき
②裏の意図(要求)が客観的にみて事実と違うとき(上の例で言えば、到底若いといえない場合、など)
③相手の裏の意図に迎合することが主観的にできない(我慢できない)とき(余りに相手に酷いことをされたので許せない、など)
だと思う。

やっかいなのが③の場合で、この場合、相手の感情と自分の感情がぶつかり合ってしまう。
しかも、下手に近しい関係の人が相手だと、双方遠慮がないので、お互いに激しくやり合ってしまう。
よくある、「私はこんなに○○してやったのに!!(だから感謝しなさいよ)」「こっちが頼んだ訳じゃない、そっちが勝手にやったんだろう(感謝したら支配された気がする)」みたいな陣地争いだ。


自戒を込めて言うと、最近は、
・自分からは、裏の意図のある言動はできるだけしない(裏の意図に自分で気付き、その感情を自分で認める→人から認めてもらったり許されなくても満足)
・人から裏の意図のある言動をされた場合、できるだけ自分の本音に従う(迎合しない、相手の意図の部分をスルーする)
この2つを心掛けている。


だいぶ、気持ちが楽になったように思う。