1つの事実であっても、どの角度から、どこを見据えるのかによって、解釈・評価が変わる。

福島の原発事故により、全町村で避難を続けている自治体がある。
自治体によって、事故から5年は帰還しない、2年後には帰還する、等方針は様々だ。

早期に帰還を目指すという判断について、友人と議論になった。

友人は、
まだまだ除染が不充分で、低線量被ばくの恐れがあり、生活上の安全が確保されないのに、自治体が帰還の旗振りをするというのは自治体のエゴだ、との意見だった。

私は、
確かにそのとおりだけれど、生まれたときから何十年もその地に住んでいたお年寄りからは、(多少の健康リスクはあっても)早期に帰還して、余生を故郷で暮らしたい、というニーズがあるだろう。そうだとすると、自治体は、帰還賛成派と反対派との板挟みになっているともいえる。だから、早期帰還を目指すのは、善意解釈すれば、自治体のジレンマのあらわれともいえる、という意見だった。

両論とも、解釈として正しいと思う。

この二つの解釈の違いは、友人はこれから長い将来のある若い人目線、私は老い先短い老人目線だという点だ。

そして、この解釈を分けているのは、友人は生を、私は死を見据えているということ。


死を見据えているといっても、死にたいとかそんなことは全くなく(むしろ長生きしたい)、私もいつか死ぬ、ということを少し意識して日々を過ごしているだけのことだ。

友人は、私と同い年だが、両親健在で、甥姪を含めた三世代の家族で同居していて、自分もこれから子をなしたいと希望しているから、死があまり身近ではないのだろう。

両方とも、後悔しない生き方をしたい、と心がけているのは同じ。

何を見据えているのかが、少し違うだけで、違う意見になる。

面白いなあ、と思う。
心の中には、冷温庫があって、それぞれの場所に、いろんな人を入れている。

その人のことを思い出すと、温かい気持ちになる人。

あまり認めたくはないが、冷え冷えとした気持ちになる人もいる。
中には、冷凍庫でカチンコチンに固めてしまった人も。

冷温庫内で、場所を移動する人も、もちろんいる。

ああ、この人は永久に冷凍庫だと思っていたけど、だいぶ溶けてきた、冷蔵庫に行ってもらおう、とか。

逆に、温庫から冷蔵庫行き、ということもある。
ただし、あるにはあるが、ごくまれだ。自分から能動的に移動させることはしない。
相手が関係を切ってきた時だけ、移動してもらう。

最近は、私も大人になってきたのか、冷温庫内の比率が変わって、温庫部分が広くなったように思う。
友達が、彼女の旦那さんを評して言った一言。

男女間のコミュニケーションの難しさを表すに秀逸!!


でも、そんな彼も、付き合って数年の間は、とても優しくて、彼女を受け止めてくれる言葉を発していたらしい。

心の距離が近くなると、言わなくても分かって欲しいという甘えや、何故か言えないという照れが出てくるのかもしれない。


まあ、でも、女性は(たぶん男性も)、言葉にして言わなきゃ分からない。

怒りを溜め込んでいても言葉にしなきゃ通じないし、
愛情や感謝だって、言葉にしなきゃ通じない。

明日死ぬかも知れないのだから、伝えた方が後悔しないと思う。
進路、なんていうとまるで学生みたいだけれど。

仕事を、どこで、誰と、何をどうするのか、決めなければならない。

誰かと共同で開業するならば、その他の点もほぼ自動的に決まるのだが、一人という選択をする可能性も高い。
お金が絡むこと、自分の裁量の幅が減ることを考えると、一人の方が気楽ではある。

そうすると、問題は場所なのだろう。

もうここ2年近く、ずっと、ずっと、考え続けている。

余りにも答えが出なくて、

いっそのこと、占いとか、アミダくじで決めてしまいたい気分。
あるいは、誰かが「ここに住むんだ!」って決めてくれないかな~、とさえ思う。
思考停止したくてしょうがない。

答えが出ないので、今度開業する、とある先輩に相談してみた。
検察官から弁護士に転身した先輩だ。私以上に、さまざまな決断を経て、ここまで来ている。

曰く、「決断をするまでは深い森の中にいるみたいで、いつ出られるんだろう、って不安になった。でも、ふとタイミングがやって来て、スルスルスルって感じでご縁がどんどん繋がって、路が開けた」
「ずっと考えていれば、いつかタイミングが来る」

うんうん、ごもっとも。きっとそうなんだと思う。ほんとに。


だがしかし…

2年て、ちょっと、長くない!?


これまで、人生のイベントの大部分(進学、就職、結婚、資格試験等々)を即断してきた(または選択肢がなかった)身としては、この自由すぎる選択が、決断が、難しい。
意外と優柔不断な自分に驚く。

早く来ないかな~。タイミング。
誰でも、仕事のうち、苦手な分野があると思う。

ご多分に漏れず、私にも苦手な分野がいくつかある。
その一つは、刑事事件で被害者と示談することだ。
成功率ゼロというわけではないし、強姦被疑事件で示談し、告訴取下げを取ったこともある。

それでも、苦手意識が強かった。

正直に言えば、物凄く怒っている被害者(たいていの場合怒って当然なのだが)と話をすること自体が苦手だった。
私が女性だからか一見優しそうで話しやすいのか、被害者の人々は、犯罪をしたわけでもなんでもない私に、怒りの感情をそのままぶつけてくることが多かったからだ。そうされると、私としては、(特に自分で事件を選べない国選の場合に強く)「なんで私がこんな負の感情を受け止めなきゃならないんだ…」と自分が被害者になったような気持ちになる。
それが分かっているから、私は、示談に及び腰になりがちだった。

しかし、最近、苦手意識が少しなくなった。
怒りの言葉や愚痴を聞くのが嫌だと及び腰になるのではなく、「聞きますよ、できる限りのことはしますよ、でもそこまでしかできませんよ」と腹をくくって、相手の懐に飛び込んでみると、相手も負の感情をそのままぶつけることはしないものだ、と分かったからだ。


もっとも、苦手な分野が一つ消え、「普通」になると、他の苦手分野が浮き立ってくる。

劣等感が強くて繊細なタイプの人で、負の感情を撒き散らし、自分の価値を確認するために他人を貶めるような人は、苦手だ。
どんだけ自分に自信がないんだよ、と思う。もちろん口には絶対出さないけれど、困ったことに、こういう感想は相手に伝わってしまうものなのだ。
プライベートなら関わらないが、仕事では逃げ場がない。やれやれ。


まあ、次々と苦手を克服して、少しずつ、仕事が、ひいては人生が、善くなっていくのだろう。

ここ最近、久々に毎日投稿をしている。
毎日投稿をすると、面白いようにブログのアクセス数が伸びる。
その現象が興味深いし、読んでもらっていると思うと、やりがいも出てくる。

連日投稿している理由は、前にも書いたが友人が離れてしまったこと、それから今ピークを迎えている仕事を契機に、人間というものや、自分の心や、今現在の流れを考える時間が増えたからだ。

人が離れたというのは恋愛沙汰ではなく(恋愛だったらブログには書かない)、だからこそ、経験もなく、いささか驚いている。
仕事については、内容を書くことはできないが、依頼者から恨まれてもその人にとって痛いところを突きつけるか、そこは流してことなかれ主義で手を抜くか、悩んでいた。
結局、前者を選んだが、それによって過剰な責任感を抱えることはしない。

これだけのことがあったら、従来の、例えば去年の私ならもっとテンパっていたと思うのだが、意外に冷静な自分に驚いている。

人間関係については、自分が悪かった点については精一杯謝罪をしたこと、相手の解釈が極端に過ぎると思う点については根拠を示して意見を伝えたことが大きいと思う。
これで折り合いがつかないなら、考え方が違うとしかいいようがない。

仕事については、やりたいこととやりたくないこと、できることとできないこと、やらなければならないこととやる必要のないこと、これらの住み分けが明確になってきたのだろう。
依頼者に自分を投影してはいないと思う。

いずれにせよ、人がどう思おうが、私は私で、減りもしないし、増えもしない。
自分は悪くない、自分には他にも友人がいるのよ!などと、声高に叫ぶ必要もない(まあ、友達はたくさんいるんだが)。

何度も繰り返すが、彼らの感情には、彼らが責任を取るしかない。
怒りを継続したのも、思い通りにいかないイライラを私にぶつけたのも、彼らの選択だ。

そして、静かに怒るのも、私の選択だ。
過剰に他人を助けようとする人は、無意識に、自分が親などを助けられなかった罪悪感を打ち消すために、そうしている場合が多いそうだ。

なるほど、
だから、私は、お節介なんだ、と膝を打った。

そして、
だから、お節介をして、感謝されても、完全に報われた気持ちにはならないんだ、と思った。

だって、他人を助けたって、親を助けられなかった思いは消えないんだから。


自分の親に対する罪悪感を打ち消そうとして他人にしている親切は、どこか、不自然。
結局、自分の気持ちを満足させるために相手を利用しているだけだから、相手を見ていない。
どこかしら、押し付けがましい。

自分の罪悪感は、自分への慰めと一緒に、自分の中で抱き締めてしまおう。

親切は、真っ直ぐ、相手のためを思って、行おう。
我ながら、慰謝料を請求する(される)ような人の代理人の仕事をしていながら、言うのも何だが。

傷ついたからといって、仕返しすることには、意味がない、と思う。

例えば、
ここ数年は見ていないので、今もあるのか知らないが、ネットで、
「30過ぎた女は産業廃棄物」
といった論調があり、いたく傷ついたことがあった。

言葉の汚さ、加齢という努力ではどうにもならない不可避的なことを嘲る心根の汚さに嫌悪感を抱いたのはもちろん、
リアルでそのようなことを言う人がいないのに、ネットでは大勢(?)の人々が言っている、そこに建前と本音を見たような気になって、人間が怖くなり、気持ち悪くなった。

しかし、当たり前のことだが、以下の点に気がついた。
・歳を取った女性に価値を見出ださない人もいれば、そうじゃない人もいる。
・リアルで紳士的な人は、ネットでも紳士的な可能性がある。
・女性自体の個人差もある。

そう気づくと、ネット上の、誰が何の意図で書いたか分からないような悪口など、今の私にとっては、関係のないことだと分かった。


ただ、過去に、傷ついたために、ついつい、仕返しがしたくなる時がある。
上の例で言えば、ネットにそのような品性下劣な書き込みをする輩の属性や生活状況や精神状態を分析したくなったり(見知らぬ他人のことなど分かるはずがないのに)、
自分がリア充で満たされていると声高にアピールしたくなったり(見知らぬ他人が見るはずもないのに)もする。

しかし、仕返しをしても、全くのエネルギーの無駄遣いなのだ。

相手に直接響かないからではない。
互いに傷つけ合うだけだからだ。
傷つけることで、自分も傷つくからだ。

上の例で、たとえ、偶然、年齢差別主義者がこのブログを見て、私が推測で書いたこと(例えば引きこもりだとか)が図星だったり的外れだったりで、その人の心に何らかのネガティブな形で響いたとしても、
そこから先は、互いに相手を傷つける言葉の応酬になるだけだろう。
まるで戦争と同じだ。

そして、人を傷つけたり、復讐のために自分の不幸を見せつけたり(私はあなたのせいでこんなに傷ついた、と責める)、復讐のために自分の幸せをアピールしたりしても、
今ある幸せを感じることはできない。
それどころか、過去の傷みが癒されることもない。
これは、上の例だけの話ではない。

自分が過去に傷ついたことは、例え他人に原因があって相手に責任追求をしたとしても、最後の最後には、自分一人で、傷の存在を認めて、癒すしかない。

その傷があるから、優しくなれた、
傷があるから、強くなれた、
傷があるけれど、今、生きて、呼吸をして、命がある、

この有り難みを感じていれば、仕返しなんて、する必要はないと思う。


ついつい、仕返ししたくなる小さい自分へ。
きっと読むことはないだろうけど、過去に私が傷つけ、私を傷つけた人達へ。
人の親切のおかげで、思いがけず、墓参りが実現した。
寄る予定には全然していなかったのに。


そういう温かさって、心が緩む。
またまた再読した。「まぼろしハワイ」。

ちょうど一年前、ハワイ島に行った時、再読しようと持っていったはいいものの、私はぐうぐうと眠ってばかりで、全然読まなかった。

同行したN子さんが熱心に読んでいたので、貸したままになっていた。
文庫本だし、もうあげたつもりになっていた。

ところが、律儀なN子さんは、今年の春、わざわざ文庫本(とお礼のイルディーヴォのCD)を、送ってくれた。

東京に引っ越してしばらく、新しい環境や仕事に慣れたり、旧交を温めるのに精一杯で、落ち着いて小説を読むことは殆どなかった。

しかし、幸か不幸か、ここ最近、何人かの人たちが私から離れていった。
時間的にも精神的にも、空きスペースができた。

空きスペースに、いくつかのお誘いも頂いたが、ここ数年お酒を飲むと翌朝体調が悪いことがハッキリと分かってきていて、いいきっかけだから量を減らしたいと思っているので、お酒のお誘いに乗るのは、必要最小限に止めている。
最近は、深夜に及ぶ仕事はない。
すると、平日の夜の時間に、空きができてきた。

久しぶりに、小説を読みたくなった。

お酒の場でなくとも、メールやらSNSやらで、私に何らかの悪感情(嫌悪までいかない小さなものも含む)を抱いている人と関わって、他人の感情に振り回されたような気になるのも嫌だし(いつも書いているが、結局、感情の責任者はその人自身だ)、

何より、本を読むことで、心の中心に戻るような、自分に戻ってきたような、あの感じを味わいたかった。


再読して、前回とはまた違う感想を抱いた。
前回読んだ時は、家族との縁の薄い主人公達に自分を投影して、ただひたすら涙が溢れたのだが、今回は、前回ほど泣くことはなかった。
主人公達の哀しみと立ち直りの過程よりも、人間が生きていくことのしたたかさ、ドロドロしたもの、その底にある美しさや温かさに、共感した。

そして、前回同様、自然描写や空気感の描写に心打たれ、ハワイへの旅愁を募らせた。

今回、自分でも驚いているのは、あれだけ重篤な「人から嫌われたくない病」患者だった私が、今や、別に自分ができることをやり尽くしたのだから嫌われてもいいや、と思っていることだ。自棄になっているわけでもなく、他人の感情を私がどうこうはできないからだ。
そう思う自分に対して、私は冷たいのかも、と不安にもならない。私が優しいことは、私が一番よく知っているからだ。

こんな風に、冷静に、人間関係に対処できるなんて、従来だったら考えられないことだ。

ハワイ島旅行からちょうど一周年、振り返りの時期なのかもしれない、