タイトルで言い尽くした感があるけれども。

なぜ、変わる必要はなくて、素直になればいいのか。

第1に、量的な理由、
ドラスティックな変革というのは、なかなか難しく、徐々に変わる方が成功しやすいから。

気合いを入れて、「変わらなきゃ!」と、まるで企業広告のコピーのように自分に言い聞かせても、じゃあ明日から変われるのか、といえば難しい。

例えるなら、20年も英語から離れていた人が、いきなりTOEIC800点台後半を目指して普段の仕事に加えて1日4時間英語の勉強をし始めるみたいなものだ。

それよりも、1日20分の勉強をサボらずに積み重ねて、継続による自信を身に付けていった方が、長い目で見れば、早く目標に達することができると思う。

つまり、大きな変革より、本来の自分に素直になる方が、変化の幅が小さいから、楽に変わることができる。

第2に、質的な理由、
自分に才能が全くないか、あったとしても少ない類型の美徳を磨こうと頑張るより、もともとある魅力(才能)を磨いて開花させる方が、効率的だから。

例えば、人の長所や良い行いに細やかに気がついているけど、口下手で、誉めるのが苦手な、お世辞なんてとても言えない人の場合。

直接対面で伝えるのが無理でも、人伝てだとか、メールだとかで、「あの時の良い行いを見ていたよ、感心した」と相手に伝えればいい。
本当の気持ちを表現しているだけなのだから、思ってもいないお世辞を言うのとは訳が違う。

つまり、本来的に持っている魅力を生かす方が、変わろうとする本人にとっても嘘がなく、楽だ、ということ。


しかし、ここで、何で素直になる必要があるの?今のままで困ってないんだからいいじゃない、という見方もありうる。

もちろん、自分の心の置き所や態度をどうするかは、それぞれの自由だ。

ただ、素直になった方が、楽に、幸せに生きることができると思う。

少なくとも私は、人に素直に感謝や長所を伝えることができるようになって、格段に人間関係が良好になった。

同時に、自分のことも、好きになってきた。
徐々に、徐々に。
元依頼者の方から、「先生、私、元気になったよ!」

と、言われた。

とても嬉しい。


こう書くと、まるで医者のようだけれど、弁護士のところに来る人々も、大抵、元気をなくしている。怒りが亢進して、一見元気に見える人も、実のところは元気がなかったりする。

「先生の方が疲れてるみたいよ、大丈夫?」なんて言われたり。

こんなやり取りが、この仕事の醍醐味なのだ。
チャレンジしているときは、無我夢中なので、上手くいかなかったらどうしよう、などと不安にはならない。

一歩踏み出す前、夜明け前が、一番暗い。

踏み出してしまえば、後は、流れに乗るだけ。
大波小波が来たって、何とか乗りきって見せる。
もし失敗したところで、命まで取られることはない。
私の人生で一番惨めで暗くて自分のことが嫌いだった時に比べれば、どうってことはない。

流れに乗ることで、背水の陣を敷くことで、今までどうにかやってきた。

これからも、きっと、大丈夫。
周囲の3、40代女性に、がんに罹患した経験がある人が4人いる。

若年だと進行が早いと言われているけれど、3人が発見から5年以上経過していて、みな働き、普通の生活をしていて、お子さんを産んだ人もおり、もう治療もしていない人もいる。

彼女達は、やはり、後悔しない生き方に、物凄く重きを置いていると思う。
決断が速いし、自分を表現して生きている。仕事でも、プライベートでも。

私は他人だけれど、そうした彼女達の存在に、深く感謝する。
怒りは、悲しみや不安が、形を変えて表れた感情なのだそうだ。

確かに。
不当な扱いをされて怒っている時は、自尊心が傷ついて悲しんでいる時だし、
約束を守らない人に対して怒っている時は、約束が履行されないことによって損害が発生することへの恐れ・不安を抱いていたり、自分が軽く扱われたことで悲しい気持ちになっていたりする。

最近、私はあまり怒らなくなった。
指導などの必要があって、技術として叱るのは別として。

怒りの感情が出てきた時は、自分に問いかける。「私は、何を悲しんでいるんだろう?」「何を恐れているんだろう?」

自分の本当の感情が見えると、怒りは落ち着く。

そのあと、本当の感情と一緒にいてあげる。

不安の時には、別に命を取られるわけじゃないし、と思えばお腹の底からクスクスと笑いが生まれる。
悲しみの時には、つらかったね、と自分に同情すれば、人の振りみて我が振り直せ、という気持ちになったり、失礼な人とは極力関わらないでおこう、という選択もできる。こんなに悲しくても、お腹が空くんだ、と思えば、笑いも起きる。

怒りは、いろんなものや人を振り回し、破壊する。

相手との関係性によっては、怒っていることを伝える必要がある場合もあるけれど、
基本的には、怒りは、早く手放してしまった方がいいと思う。
なんてったって、疲れるし!
久々にたくさん夢を見た。

うろ覚えだけど、仕事関係の夢だった。

書面を起案していたり、先輩に挨拶したり、名刺交換してたり、だった。

全部場面が違っていたので、それぞれ異なる時間帯に見たのだろう。

はてさて。何でだろう。

と思ったが、昨日の日曜にやろうと思っていた仕事を結局やらなかったことを思い出し、納得。

心に引っ掛かってることは、夢に出てくるのね~
ありがたいことに、今まで経験したほとんどの職場で、お付き合いを続けてもらっている。

私は人見知りなのと、仕事に対して割と真面目(特に仕事を覚えるまでは超真面目)なので、新しい職場に入って最初の半年から一年くらいは、周囲の人たちとそんなに親しくはなれない。
何とか一人前になろうとテンパっているからだ。

時が経ち、だんだんと、自分の仕事が軌道に乗ってくると、調子に乗ってくる。
心に余裕ができてきて、愉快な仲間たち、という雰囲気になってくる。


愛のある職場は、いい仕事ができる良い職場。
交通事故で娘さんを亡くしたお母さんと会った。

2年経っても、辛い、ツラい、食事も喉を通らなくて痩せてしまった、家の中を片付けることができなくなった、夜眠れない、と嘆く。

そして、加害者に対して、憎しみの業火を燃やす。
なぜアイツは生きているんだ、と。
謝罪したい、と言い出すことを許さない、かといって謝罪しないことも許さない。

確かに、辛いだろう。
愛する家族の死ほど辛いことはない。それも、通常の順番とは逆、子どもなら尚更だ。
小さな幸せを奪った加害者が許せないのは、当然だ。

でも。それでも。

2年間、ずっと、その日から時計の針を動かさず、一歩も前に進まないのは、ダメだ。
生きている人間のやることじゃない。
彼女は言う、動かしたら、娘を忘れたことになるんじゃないか、娘が可哀想だ、だって、あの子はあの日からもう大人になることはできなくなってしまったんだもの、と。

でも、違う。
本当は、自分がそこにいたいから。
止まり続けて、進まないことで、自分を痛め付けて、ダラダラと血を流している様を、見せ付けたいのだ。
加害者に、罪悪感を植え付けたいがために。自分は、まだこんなに苦しんでいるんだと。だからお前も不幸になれ、と、音信を取っていない加害者に、怨念を送っている。

そして、それは、彼女の罪悪感を転嫁している。娘を救えなかった罪悪感。

彼女が、彼女自身を許さないかぎり、彼女は、止まり続けるのだろう。

それでも、私は、止まるな、と言いたい。
だって、何だかんだ言っても、あなたまだ生きてるじゃない。生命力があるじゃない、と。

オブラートに包みまくって、話したけど。
あんまり伝わらなかったかもしれないなあ。