ネット上には、個別的な話を、カテゴリー間の話にしたがる人が見受けられる。

例えば、愚痴レベルの話を、男女間の問題にしてしまう人。
「~なことがあった。これってセクハラだよね。」という書き込みに対し、
「だから男はダメなのよ!」とか、
「女だってセクハラするだろ!」とか。
国家間の話もそう。

カテゴリー間の戦いを好む人々は、互いをあげつらい、それによって一時の勝利感を味わって承認欲求を充たしたいだけに見える。
そこからは、今後の関係改善に役立つ提案は生まれず、話題提供者のストレス解消にすらならない。不毛なだけ。

昔は、こういう戦いは、匿名掲示板でだけ起こるものだと思っていたけれど、
最近は、SNS上で、名前と顔を出しているにもかかわらず(名前と顔の真偽のほどは不明だが)、戦う人々を散見する。

顕名で議論すること自体は、望ましいことだと思う。大人なら、自己の発言には責任を持つべきだからだ。

しかし、議論には、レベルというものがあり、相互を尊重する姿勢を欠いた、自己の憂さ晴らしのための不毛な議論には、意味がないと思うのだ。
先日、最近は深夜に及ぶような仕事はない、と書いたばかりなのに、その舌の根も乾かぬうちに、深夜まで仕事をしてしまった。

どうして忙しい時って、いろんな案件でいろんな出来事が重なるのかなあ。
裁判の提出書面の〆切のように、予測できている仕事もあるが、アンコントローラブルなこと(急展開、予想外の展開、それにともない依頼者が打ち合わせ希望、収集した証拠や資料が大量、新件、追加オファー等)も多く、これらをいかにコントロールしていくかも、弁護士の力量のひとつだろう。

コントロール困難な事態を類型化して、起因要素(相手方だったり、依頼者だったり)ごとに、対策を立てていけば、一見コントロール不能な事態も、コントロール可能になるかもしれない。

それは、私の仕事効率が良くなるだけてなく、依頼者の利益にも繋がる。
無駄に戦場を拡げず、メイン争点に資源を集中投下する、落としどころを把握する、など先を見据えた方が、早期解決に資する。

眠くなってきて、思考力低下中…なので、また追い追い考えます。
ブログを毎日更新するのは、結構大変なことだ。

TwitterやFacebookのつぶやきと違って、ある程度まとまった量の文章だし、そうである以上、起承転結や主題を考えて構成しなければならない(義務ではないが、職業上性格上、そうしないと落ち着かない)。

また、公開範囲が広いがゆえに、他人や自分のプライバシーに配慮することはもちろん、誰の鑑賞にも耐えうる文章を目指す必要がある。

そして、できれば、分かりやすくて、ユーモアもあって、時には芸術的な美しい文章を書きたい。

こんな風に書いていると、毎日の更新が負担になる。

…が、その負担によるメリットもある。

第1に、頭が鍛えられる。
文章は、書けば書くほど上達する。私の仕事では、上達すればするほど良い。

第2に、毎日、徒然なるままに心に浮かぶよしなしごとを書いていると、意外と自分はポジティブな人間だったことに気がつく。

たまにしか日記を書かないと、通常のテンションの時にはあまり書かなくなる。
テンションが高いときか、低いとき、つまり、その時の感情をそのままブログにぶつけかちだ。悪く言えば、感情のゴミ箱、チラ裏。

しかし、ブログを書くことが日常になると、それこそ、常日頃から考えていることや、感情が大きく動くわけではないがその日思ったこと等を書くようになる。

すると、意外なほどポジティブな内容が多くなった。

外の世界に発している自分と内面のギャップがますます埋まったような気がする。

近頃は、仕事とプライベートの自分にさえ、あまりギャップを感じない。

昔はそれを嫌だと思っていたけれど、いざ同質化してみると、嫌どころか、楽ちんだ。

結局、どれも自分だから。


遅い昼休み、終わり。
ときどき、料理上手と言われることがある。

自分では、下手ではないけど取り立てて上手いというほどでもないと思っている。

だって、飾り包丁とか魚を下ろすとかリンゴの皮剥きが苦手なのだ。
要は包丁があまり得意じゃない。

それに、周囲をみると、頭の良い人は、みんなそこそこ料理が上手だ。段取りを整え、器用に成果物を創ることに喜びを感じるから。
そういう人達の料理を頂くと、自分もまあそこそこだなあ、と思うのだ。
自分で作って自分で食べた時は、自分好みの味付けだから、美味しいと思うけど。


けれど、今日は、私より絶対に料理上手な人から、料理上手と言われ、浮かれた。


そうだった。
料理は、包丁テクニックだけじゃなかった。


料理は、味見、味付けの工夫、化学反応の予測、外食時の美味しいお皿から学ぶセンス、

あとはやっぱり「美味しくなーれ」の魔法。
自分に家族がいないことで、孤独だ、とずいぶんと嘆いてきた。

物事には好悪両面あるとはいっても、家族がいないことにメリットなんて何もない、と思ってきた。

しかし、気がついてしまった。


新しいことにチャレンジしようとする時、一人の方が、リスクを取りやすい。
たとえ失敗しても、自分一人が、経済的に困窮したり、恥をかくだけ。家族に辛い思いをさせないですむ。

失敗したって、命まで取られるわけじゃない。
と、腹を括りやすい。


そう、自由なのだ。

本当に、物事に、悪い面しかないなんてことはない。
どんなに最悪に思えることでも、何かしらの糧になっている。
歳を重ねたからか、仕事やら何やらで忙しくテンパっていても、外からは余裕があるかのように思われることが多くなった。

実際、ものごとの優先順位をつけて、予定外のことにも対応できる時間を含めたスケジュール(無理にギュウギュウ詰めにしない)を組んで、最終的には土日に働く覚悟でいれば、そうそう、周りに分かるほどイライラはしない。
同じ休日勤務でも、自分であらかじめ覚悟をして働くのと、スケジュール的に間に合わなくなってイライラと焦りながら働くのでは、効率が全く違う。

精神状態は、仕事の効率に、大きく影響する。
できるだけ平らかな心でいるために、心掛けていることは、以下のとおり。

・(昨日も書いたが)仕事には予想外のことが起こる、とあらかじめ予測しておく。人は自分の思い通りになんて動いてはくれない(だから、面白いと言えるだけの余裕が持てるようになりたい)。

・予定が狂ったら、今何ができるかを考える。予想外の行動をした人の心理分析は後回し。

・無理なものは無理と断り、嫌われて離れられても仕方ないと勇気を持つ。

・逆に、助けて欲しい時は助けを求める。
「アタシこんなに忙しいのよ!」と大変な自分アピールをして周囲に罪悪感を持たせ、「手伝おうか?」の声を待つのは、子どものすること。

・忙しいアピールをする人には、「そんなに大変なら私がやろうか?」と言うけれど、「助けが必要なら言ってくれないと、手を出していいのかどうか分からない」とも言う。そして、黙って手伝って、暫く相手に話しかけなければ、普通レベルの大人なら、すぐ反省する。

・自分が忙しいアピールをしたくなるくらい忙しかったり、プレッシャーのかかる仕事をしている時は、「あーっ、ムカつく、八つ当たりしたーい!」と思う気持ちは認め、しかし、「今の苦労によって自分のキャパがグイグイと拡がっているんだ」とも考える。

・第三者からの「自分は夜中や土日に働いてるんだからお前もやれ」といった同調圧力に負けない。仕事をする自分に酔っている人には付き合わない。

・突然の飲みには、一緒にいて気を使わないないで済む相手でない限り、極力行かない。その場を面白くしようと飲み過ぎて、気力と体力を消耗して、翌日のパフォーマンスに響く。

・雑用をしてもらう部下には、その仕事の意味・位置付けや価値を、折に触れて話しておく。仕事をしてくれたら、感謝の言葉を述べる。

・頭に来たときには、素直に怒っている自分を受け入れる。相手に言いたい罵詈雑言も呑み込むのではなく、罵りたい自分と、そんなことしちゃダメ!と思う自分と、関わらないで逃げたい自分とその他、全てをいったん受け入れて、否定しないで認める。

・人間は、議論の際、最終的な採否はともかく、皆が自分の意見を受け止めて検討した、と感じれば、納得するもの。
忙しいと、結論が決まっている事項については、時間がもったいないので、相手の話を聞かずに結論までもっていきがち。だが、自分の焦る気持ちを一呼吸長めに取って、話を聞けば、相手も納得し、上手くいく。

・自分の心に罪悪感の曇りを作らない。
人に理不尽なことをしない、礼儀を守る、約束を守る、悪口を言わない。

・プライベートを充実させる。公私両輪あってこその人生。


…これら全てできればいいが、もちろん、心掛けなので、できないときもある。
精進します。
先日の満月の皆既月食は、占星術的には、予定外のことが起こるお知らせだったんだそうだ。

そのせいかどうかは分からないけど、今週は、予定が変更しまくった。

調停期日変更、結審予定だった裁判の続行、その他仕事に係わる大きな予定の延期、突然友達が家に来たり、逆に突然先輩宅に行ったり。
止めに予定外にたくさんの仕事が発生。

この仕事を始めて学んだことの一つが、「この仕事では、相手方がいるから、予定外のことばかり起きる、そして、仕事だけでなく人生全てにおいて、予定外のことが起こることを予測していれば、何事にも落ち着いて対応できる」ということなのだが。

それにしても、今週は、予定外のことが多すぎ!!
オモロイ人々の周りには、オモロイ人々がいる。

何がオモロイかって、
豊かな知識や経験に裏打ちされている話だったり、
自分を信じる態度だったり、
仕事と遊びの両方に全力投球する姿勢だったり、
何かに媚びたり怖れたりしない自由な精神だったり、
もし逆境に陥ったとしてもしなやかにはね除ける・すり抜ける柔軟性と強さだったり、
弱っている人へのさりげない優しさだったり。


自由でポジティブ。
人生を、楽しく、謳歌する。

そんな人々といると、ホントに楽しい。
いわゆる教えてちゃんが嫌いだ。

勉強でも、仕事でも、自分で一通り調べた上でないと人に聞いてはいけない、と習ってきた。親から、上司から。
現に、自分で調べた方が、最初は時間がかかっても、後々は、応用が効いて、難しい問題でも素早く調べることができるようになる。

…と、こんなに理由を並べて自己肯定しなければならないくらい、教えてちゃんが羨ましいのだ。

要領がよく、愛嬌があって可愛らしく、私から見ればズルいのに人から好かれる。
ホントは羨ましい。

年を取って、ある程度は可愛がられる技術を身に付けたけれど、
元来の長女気質は抜けないのか、人に、教えて、助けて、とお願いすることは、苦手だった。
人に甘えたい気持ちを抑圧していたせいか、本当に近しい人には依存してしまい、迷惑をかけることもあった。


でも、最近は、教えて、助けて、といえるようになってきた。

きっかけは、仕事で一度、背筋が凍るようなピンチに陥ったことだ。
自分一人での解決も、不可能ではないが困難だし時間がかかるような出来事だったので、上司等に頭を下げた。

あっという間に解決した。

その時に思った。

ああ、人に教えてもらう、助けてもらうとは、こんなにも簡単で、心地よいことなのか、と。
自分のちっぽけなプライド(というより見栄や意固地)のために、今までずいぶん余計な苦労
をしてきたんだな、と。

そして、少しずつ、たくさんの人を頼れば、少数の人に依存してしまうこともない。


そもそも、自分一人でできることなんて、たかが知れている。
人の助けを借りれば、2馬力、時には相乗効果で10馬力にもなる。

教えてちゃんは嫌いだけれど、必要な時には、人に甘えた方が、上手くいく。