4.元慰安婦の証言に信ぴょう性はあるのか(その2 金福童さんの戦後)
(「従軍慰安婦問題」決着ーー泥さんが、右派のウソを元から断つ.に対する批判)
前稿では、吉見教授が2012年及び2014年に金福童さんへ行った聴取記録(以下、吉見調書)に従って彼女の行動を調べて見たが、調べれば調べるほど帰郷までの行動について理解に苦しむことになった。そして一文無しで帰国してから、カミングアウトする60歳までの生き方も霧に包まれている。戦後の金さんの情報を調べることにしたが、彼女の人生は謎だらけである。
2014年8月ローマ教皇訪韓時、ミサに参加した金福童さんへのインタビュー記事
カソリック・レジスター 2014年8月19日
釜山近郊の農家で育った金さんは、14歳の時、日本軍に連行された。性奴隷として8年間。結婚をしていない。1960年代初期に、苦労して、レストランのウェイトレスからオーナーになった。
コリア・ヘラルド 2014年8月27日
1939年14歳で連行され、釜山、台湾、南方に移動、慰安婦として働く。
1948年22歳の時韓国に戻り、釜山でレストランを経営。
結婚もしていなく子供もいない。
Aleteia 2014年8月28日
13歳で連行された。
日本軍について、中国、マレーシア、香港、シンガポールをまわった。戦争が終わったとき、金も住むところもなかった。米軍兵士だけは、韓国に戻るのに必要な書類とお金を作るのを助けてくれた。
PRLog (Press Release) - Jul 16, 2012 カルフォルニア州立大で
1941年15歳の時連行され、1945年終戦時に米軍の捕虜になり、1年後20歳の時韓国に戻った。しかしその後1992年までの間のことは話していない。
2012年9月23日の大阪集会(再掲)
1926年生まれ、1941年連行、台湾、広東、香港、シンガポール、スマトラ、インドネシア、マレーシア、ジャワと軍隊と共に移動。1946年帰国、その後釜山で結婚、子供はできず、夫とは1981年死別。
金さんの戦後から1992年までの人生が語られていない。2014年8月ローマ教皇が訪韓され、8月18日のミサに7人の元慰安婦を最前列に並ばせた。この時の報道に、金さんが、終戦後帰国し、ウェイトレスで稼ぎ1960年代初期にレストランのオーナーになったと書かれている。
2012年大阪では戦後結婚したと申告し、2014年ローマ教皇訪韓時には、未婚であると語っている。吉見調書222頁に、男やもめと7年間暮らし、子ども作りに努力したが出来ず、その男は舌がんで亡くなったと書かれている。善意に解釈すれば、正式な婚姻ではない内縁関係とすれば、教皇訪韓時の未婚の発言と大阪での夫と死別の発言とは矛盾しない。
しかし、大阪発言は、1981年夫と死別と書かれている。1926年生まれの金さんは満55歳である。吉見調書の7年間暮らした男ならば、満48歳から子作りの努力をしたことになる。正常な女性でも無理であり、20代から30代と考えられる。吉見調書222頁「一人で商売をしていると,近寄って来る人も多いし,一人で商売しようと思ったけど,なかなかうまく行かない.それで男やもめと一緒に暮らしたことがあるの.まだ若かったから,子どもでも産んでみようとあらゆる薬を飲んでみたけどダメ.」と若い時期の努力が語られている。つまり、婚姻か内縁関係か分からないが複数の男性との夫婦関係はあったと推測する。
ウェイトレスとは、当時「女給」であり、昼と夜の営業を行っていたと言われている。金さんが帰国して生活を維持するには、結婚か醜業に就くしかない状況であり、結婚していなければ、女性一人で生きて行くのは厳しい。日本でも同様で昭和23年、大阪府接待婦組合連合会が**防止法制定延期を訴えていた。(別稿で紹介予定)吉見調書222頁の商売の苦労の発言にその一端が垣間見える。
1950年6月25日朝鮮戦争勃発後(2ヶ月後には北朝鮮軍が釜山包囲)、金さんは釜山に行き、食堂に住み込みで働き接待を行った、数ヶ月働いてその経験を生かし自分の店を持ったと語っている。(吉見調書231頁)数ヶ月の稼ぎで店を持てるとは、よほどの高収益の仕事に違いない。
休戦協定が結ばれる1953年7月27日まで、朝鮮半島は国連軍+韓国軍と北朝鮮軍+人民解放軍が戦闘を繰り返し軍民合わせて600万人以上の犠牲者を出す戦争を行っていた。その後の休戦維持に韓国軍と国連軍(米軍)が任に当たる。慰安所の需要は大いにあったはず。
南方からの帰国にあたっては米軍兵士の助けを借りた話は、イギリスが南方軍降伏日本兵(JSP)の管理であり英軍とインド軍の編成部隊が担当していたことを知らなかったのだろう。(吉見調書230頁、アメリカ人と黒人)または南方に行っていないか。
終戦時、第16軍病院あるいは南方軍第10陸軍病院に勤務したとの情報があるが、2005年朝鮮日報の「第10陸軍病院(スマトラ)」記事が出るまでは、金さんは「第16軍病院(ジャワ)」と証言している。(1994年アジア法廷)その病院の詳細や、引き揚げ時の状況(日時、出港した港、船舶名、帰還港)いついては一切語っていないが、1992又は93年頃大阪の博物館において、金福童さんが病院勤務していたとき仲間と一緒に写した写真を見たと語っている。しかし、吉見教授が第10陸軍病院かと誘導質問しているが金さんは反応していない。その写真に写っている仲間の一人とソウルの慰安婦運動で出会ったと語っている。(吉見調書239、240頁)
大阪の博物館の写真があれば病院名はわかると思うが、どうも腑に落ちない。金さんが、その写真をみたのは1993年頃、1994年には女性の人権アジア法廷で「第16軍病院」と語り、2005年には挺身隊研究所が「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿」に「第10陸軍病院」の軍属と書かれていることを発表している。この留守名簿のコピーが吉見調書に添付されている。金さん以外の方の本籍地を削除したとしているが、どう消去したか分からない。というか、空欄の用紙に、金福童さんの本籍地と職名、5人の氏名を書いたように見える。最初の1994年発言の第16軍病院のエビデンスをつくったように感じられる。
ところが、書かれた第10陸軍病院は、ジャワの第16軍ではないスマトラの第25軍に所属するのであり、疑問がさらに増える。
さらに、2012年に大阪で、最初に追従したのは、陸軍第15師団であり、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されたと語っている。吉見調書でも4回にわたり確信的に語っている。この第15師団は広東ではなく華中にいて、1943年にビルマ攻略の第15軍に編入されているので、彼女の移動の時期と経路が全く合わない。
その写真の仲間の説明もはぐらかし、戦中・戦後の1992年まで付き合ってきた関係者の詳細も話さず、金さんは人生の秘密を抱いて2019年1月に永眠した。
南方軍病院
(南方軍復員史 第6巻 101頁より)
南方軍直 シンガポール
南方第一陸軍病院、南方第三陸軍病院
第150兵站病院
第29軍 レンパン
南方第八陸軍病院
第150兵站病院、第151兵站病院、第155兵站病院
第16軍 ジャワ
南方第三陸軍病院、南方第六陸軍病院、南方第七陸軍病院
第109兵站病院
第25軍 スマトラ
南方第九陸軍病院、南方第十陸軍病院、南方第十七陸軍病院
ビルマ方面軍 ビルマ
第106兵站病院、第107兵站病院、第118兵站病院、第121兵站病院
第18方面軍 シャム(タイ)
南方第十一陸軍病院
第100兵站病院、第133兵站病院、第124兵站病院、第149兵站病院
第2軍 セレベス
南方第十五陸軍病院、スリリ陸軍病院
第125兵站病院、第126兵站病院、第150兵站病院
第37軍 ボルネオ
南方第十一陸軍病院
第147兵站病院
第38軍(印支) ハノイ
南方第二陸軍病院、南方第四陸軍病院
第149兵站病院
「陸軍師団総覧(新人物往来社)」
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