(2016年2月に投稿した記事をもとに追記、修正をしました。)

 

 2013年、87歳の金さんが14歳のとき、日本軍の軍服を製造する「挺身隊」で働くためと連れ出され、8年間「慰安婦」として働いたと証言した。(沖縄タイムス)

沖縄タイムス2013年5月20日報道(資料1)
 2013年5月18日、沖縄での交流会で、87歳の金福童さんが次のように証言した。
 「金さんは14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から連行された。アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。」

資料1(魚拓)

 湯沢町の九条の会さん
 ガジェット通信さん

 1994年、69歳の金さんが16歳のとき、日本軍の軍服を製造する「挺身隊」で働くためと連れ出され、8年間「慰安婦」として働いたと証言した。(女性の人権アジア法廷)

資料2
1994年3月9日~14日 「女性の人権アジア法廷」東京
「女性の人権アジア法廷」、「女性の人権」委員会編、明石書店、1994

証言 国を奪われ、人生を奪われて


 金さんは六十九歳で、釜山という韓国の最南部に住んでいらっしゃいます。
「私も十六歳のときに、そのころの「挺身隊」に入りました。」

注;挺身隊の法律施行
1939年 国民徴用令(朝鮮半島での法適用は1944年8月から)
1941年 国民勤労報国協力令(14-40歳の男子、14-25歳の実質未婚女子。
1943年 女子勤労動員ノ促進ニ関スル件(自主的な組織で14歳以上の未婚者)
1944年 女子挺身勤労令(朝鮮籍は9月から)

 多くの方は、年齢の誤差を指摘している。それと終戦の1945年以降にも慰安婦をしていたことになり証言が信頼できないと言う方が多くいる。
 満年齢と数え年の違いがあったとしても、2013年の証言は14歳のとき1940年であり、1994年の証言は16歳の時1943年である。8年後は、前者が1947年、後者が1950年である。
 1994年の証言が間違っていたとして指摘され、2013年の証言(14歳)と訂正したとしよう。
 実は、1947年まで慰安婦の営業をしていた可能性がある。

 日本軍は、1945年8月15日で全て解散したのではなく、満州(シベリア)や南方に残された日本軍と民間人が復員するのは、それから数年かかった。
 金さんの移動は、本人の証言を順に記載すると下記の経緯になる。

 

釜山→下関→台湾→広東→香港→スマトラ→インドネシア→マレーシア→シンガポール(戦争中断;終戦)→第16軍病院→米軍収容所→韓国

 さて、金さんを連れ出したのは誰かをはっきり語っていないが、1940年には、挺身隊への勧誘として連れ出されている。朝鮮半島ではそのような法令施行がなかったので、女衒に騙されたと考えるべきだろう。
 次に、転々と場所を変えるが、下記の様に、その場所を管轄する軍が異なる。この軍編成をみれば、軍の移動について移動したのではなく、女衒あるいは女郎屋が引き連れて移動したと考えるべきだろう。

金福童さんの証言と軍の配置
広東           第23軍
香港           第23軍
スマトラ         第25軍
インドネシア(ジャカルタ)第16軍
マレーシア+シンガポール 第25軍
マレー半島        第29軍
(以下参考)
ビルマ          第15軍、第28軍、第33軍
ボルネオ         第37軍
仏印           第38軍
タイ           第39軍
大日本帝国陸軍の軍の一覧

 次に、南方軍の敗戦処理と復員の記録を調べて見よう。

 1945年8月終戦時に、南方軍は約72万人が展開していた。仏印(南方軍司令部)、シンガポールとマラヤ(現マレーシア)、ビルマ、現インドネシアなど。

 1945年9月12日、シンガポールで寺内元帥の南方軍総司令部は、英海軍大将マウントバッテン指揮下の東南アジア連合軍(South East Asia Command = SEAC)と降伏調印を行い、南方軍は戦闘停止と武装解除を行った。

 金さんが営業した地域は、主に英国軍と戦った日本軍であり、米軍はフィリピン以北と太平洋地域で戦った。最終の勤務地は、ジャワ島(ジャカルタ)の第16軍である。英国軍は復讐と戦後復興のため日本軍兵士の復員を認めず、奴隷のように使役した。マッカーサー総司令官が英国(SEAC)に日本兵士の早期復員を促したが、あの手この手で引き延ばしを行った。船舶や費用負担の決着がつき、1947年5月31日までに約60万人の南方軍が復員した。英国は残り10万人強の復員を認めなかった。吉田茂首相からマッカーサー総司令官への懇請により、英国に復員を認めさせ1948年1月3日に最後の帰還船が日本に到着した。

 第16軍のいたジャワ島は、終戦半年後にオランダの支配に戻った。詳しくは下記(長文)を。

東洋英和女学院大学 現代史研究所
現代史研究所紀要 『現代史研究』 第9号
2013年3月発行
増田弘教授著
日本降伏後における南方軍の復員過程
(上記タイトルのPDFファイルをダウンロード)

 

ここで、金さんの証言を点検してみよう。

 嘘を言っていなければ、ある程度の記憶違いがあったとしても、金さんは終戦時南方軍の支配地にいたことになる。帰還する船もなく、日本軍兵士も帰還できなかった。復員する兵士と同じ船に乗るしか帰還する方法がなかったと思われる。上記増田先生の著作には「民間人」の帰還がほとんど書かれていない。朝鮮人と台湾人は日本人と分けて扱うように連合軍の指示があったと記載されている。

 金さんが、1994年の証言で「朝鮮人は一箇所に集まれば朝鮮に帰ることができるから集まれ、そして朝鮮に帰りたい者は帰り、帰りたくない者は一緒に日本に行こうと、病院の院長が言いました。」と語っていることが相当するかもしれない。

 次に「私は国に帰りたいと思いました。そして行った所が米軍の収容所でした。この収容所でもたいへんな苦労をしました。でも最後には韓国に向かう船に乗って帰って来たのです。最後の船でした。」と証言しているが、ジャワ島の収容所は英軍あるいはオランダ軍のはず。米軍の収容所と語っているのは、米英欄の区別がついていないと思われる。

 1947年1月に復員が再開され、ジャワ島とスマトラ島(現インドネシア)から最終の帰還船が出港したのは1947年5月4日(増田先生著作118頁)であり、金さんが第16軍病院にいたとの証言は、1947年5月までに帰還した可能性が高いと言える。

 

 つまり、1940年から1947年までの8年間、日本軍の周辺に金さん(女郎屋も)がいたということは、事実かもしれない。

 降伏したとはいえ、日本軍は日本に復員するまでの間、軍隊組織が維持されていたことも、増田先生の著作から理解できる。

 韓国の報道なので資料の確認ができないが、1947年9月に作成された「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」に、19才の金さんが1945年8月31日に南方軍第10病院に採用と書かれていたとしている。年齢と場所は一致する。

 

朝鮮日報 2005年1月11日 
元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見

 当時の南方軍は9100人(内ジャワ・スマトラが3300人)と傷病兵が多く、帰還も優先されていた。さらに劣悪な状況で強制労働に服した日本軍兵士が倒れていく。病院は忙しかったと思う。(増田先生の著作より)