2.金福童さんの年齢問題と隠蔽すべき問題
「金福童さんの年齢問題」
年齢表現は、満年齢と数え年があり、ネット情報によれば、日本を含む多くの国々は満年齢を採用、韓国は数え年を採用していると説明があります。
数え年は、誕生年を一歳とし次の正月で加算していきます。誕生月日の前では満年齢と二歳、後では一歳の差があります。
日本では1902年12月より満年齢を使用することになったが数え年も使われていました。1950年に満年齢を義務づけました。韓国では、数え年を使用しています。
金さんの年齢はどちらの表現が情報を探していましたら、2013年9月20日、フランスでのインタビュー記事に解説がありました。
http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20130920-kim-bok-dong-87-ans-ex-femme-reconfort-attend-excuses-officielles-japon-droit-femmes/
翻訳
http://francematome.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
今(2013年)満87歳、数え(韓国式)で88歳。
(以下の証言は虚言と思われる)
満14歳(数え15歳)のとき、韓国は日本によって植民地化された。韓国は弱く、韓国民は奴隷のようで、全ての男子は日本軍によって徴用され、女性も強制された。
台湾、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシアのジャワ、バンコックと日本軍と移動。8年間使われ、韓国の開放(終戦)を知らず、日本の陸軍病院に配属され、その後米軍の収容所に入れられ、韓国に送られた。
2013年9月28日 Sina English(フランス記事の英訳記事)
http://english.sina.com/world/2013/0927/632534.html
87歳の金さん。14歳で連れ出され8年間慰安婦をしていた。台湾、香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールと移動。22歳のとき韓国に帰国。
上記記事のなかで、ロンドンのSOAS大学のコリア専門家のKeith Howardは、戦争が終わっても慰安婦の仕事は終わらない。日本軍に替わって進駐した軍隊に支配される。帰国する手段がないので帰国が遅れたと語っている。
Keith Howard, a Korea expert at SOAS university in London, explained that the end of war did not mean liberation for many women like Kim.
"After the Japanese surrender in 1945, we do know that... comfort women were forced into continuing their service, either towards new troops (American or Russian) who came in or just left and discarded for the locals to use," he says.
Many did not return to their countries until much later, ending up in entertainment establishments as they had nothing to go back to or just did not have the means to go home, he adds.
"And why would they go back to shame?" Howard said.
When Kim finally returned home, she initially lied to her family about what had happened. But she could not face marriage after what she had been through.
2012年7月4日
KAFC(Korean American Forum of California)
マイク・ホンダ議員のグループ
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=386996134688097&set=a.386988511355526.98152.386975531356824&type=1
1926年誕生、1941年15歳のとき連行され、中国、香港、インドネシア、マレーシア、シンガポールと移動、1945年米軍収容所、1946年20歳のとき韓国に帰国。
2005年1月11日 朝鮮日報
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/readnp/k285.html
1945年8月31日、金さんは19歳と、1947年9月に作成された「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」軍属名簿に南方軍第10陸軍病院と記録があった。(韓国挺身隊研究所発表)
2000年12月 女性国際戦犯法廷の全記録Ⅰ
(金福童さんは病気のためビデオ証言)
16頁
1926年慶尚北道生まれ、1941年15歳の時広東で慰安婦、香港、シンガポール、スマトラ、インドネシア、マレーシア、ジャワに移動。終戦時はシンガポール。最後の帰還船で帰国。(慰安所設置は、広東の第21軍司令官安藤利吉の指示とされる。) 慰安所での名前は「カネムラ・フユコ」「ヨシコ」
注;安藤利吉中将(陸士16期):1938年(昭和13年)11月9日 - 1940年(昭和15年)2月9日(廃止)
1941年金さんが広東に入ったときは第23軍(第104、129、130師団)
1994年3月 「女性の人権アジア法廷」での証言
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20130602/1370136389
69歳の金さん
16歳の時挺身隊に入った。釜山、下関(1週間)、台湾(2ヶ月)、広東、香港、スマトラ、インドネシア、マレーシア、シンガポール(長期)、戦争中断、第16軍病院に看護婦として入る、朝鮮人の区別、米軍収容所、8年後帰国。
以上を一覧表にまとめたのが下表です。
金さんは、1926年に誕生し、1940年14歳のとき連行され、1941年15歳のとき広東で慰安婦の営業を始め、8年後の1947年に韓国に帰国したことになります。
1994年3月の「女性の人権アジア法廷」で登場した際の年齢を数え年と解釈することにすれば、1926年誕生となり他の証言と一致します。
なお、フランスの記事日付によれば、誕生日は9月20日より前ということになります。さらに調べますと、下記の2013年4月22日誕生日の祝賀記事がありました。
http://megalodon.jp/2013-0530-1051-09/www.hani.co.kr/arti/society/area/584082.html
金さんは片言の日本語が話せる。(琉球朝日放送)
http://www.qab.co.jp/news/2013052043314.html
金さんは、日本軍に追従して各地を移動したと証言しています。それに当てはまるのは下記第18師団ですが、第15軍に編成されビルマに向かったときには、金さんと業者はシンガポールに残留したことになります。
しかし、慰安所を経営する業者(女郎屋)は、第一線の戦闘地域に進出するわけではなく、統治が安定した地域で営むはずで、業者の選択に委ねられると考えて良いでしょう。
広東からマレー・シンガポールに転戦した師団
第18師団;1937年第10軍に編入→杭州から南京攻略→1938年第21軍編入→広東攻略→1941年第25軍編入→マレー・シンガポール攻略→第15軍編入→ビルマ攻略
「陸軍師団総覧(新人物往来社)」
大日本帝国陸軍師団一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%9B%A3%E4%B8%80%E8%A6%A7
第25軍(マレー半島、スマトラ島) 近衛師団、第5、18、56師団、南方第9、10、17病院
第16軍(ジャワ島) 第48師団、第109兵站病院、第5、6、7病院
金さんが配属された病院は、ジャワ島の第16軍管轄であると、1994年に証言し、2005年の韓国挺身隊研究所発表にも同様の記載があります。しかし、2005年の情報には南方軍第10陸軍病院に配属とされています。第10病院は、マレー・スマトラの第25軍の管轄であり、何らかの間違いの可能性があります。
金さんの最終勤務地は、マレー・スマトラの第25軍の勤務地の可能性が高いと考えられます。
この調査を進めて行くと、金さんの証言が、後から作られた証拠により修正されているように感じます。
また、金さんの戦後の行動が語られていません。何時病院勤務を終了し、何時どの港から帰還船(船名)に乗り、どの港に着いたのか、最も記憶に残っている事柄を語っていません。朝鮮日報が報じた「第16軍名簿」も挺対協からの伝聞であり、原本を示しての報道ではありません。
挺対協がバックにいるので、つじつま合わせを行っている作業班がいるのかも知れません。その作業班は、病院名の違いから日本軍の配置を正確に調べていない可能性があります。
ストーリーテラー(慰安婦)とシナリオライター(挺対協)との記憶違いや調査不足が、慰安婦が「ジープ」「クリスマス」などと発言する事例につながっていると考えられます。
下記は、2013年9月のフランスでの金さんの証言として、「朝鮮戦争のとき慰安婦であった」と語ったとの記事。この記事もasiae社の記者が思い込みで書いてしまったか、金さんが本当に話したかは分かりません。
Asiae社は、後日「日帝占領時代」と書き直しています。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/47577325.html
「隠蔽すべき問題」
前述のSOAS大学のコリア専門家のKeith Howardの説明にもあるように、「解放軍」が直ちに慰安婦を解放したわけではなさそうです。
米公文書「レポートNo.49:日本人戦争捕虜の売春婦尋問」
「尋間によると、朝鮮人「慰安婦」について一般的にいえるのは、年齢は25歳前後、教育程度は低く、幼稚、利己的、気まぐれであるということである。これらの女性の容貌は、日本人または白人の基準からみて綺麗とはいえない。また、自己中心的であり、自分自身について語りたがる傾向がある。見知らぬ人の前ではおとなしく、取り澄ましているが、彼女らは「おんなの手管」を心得ている。彼女らは自分の「職業」を嫌いだと主張し、「職業」や自分の家族について語りたがらない。ミイトキーナおよびレドにおいて米軍兵が捕虜である彼女たちに親切な処遇をしたため、彼女たちは米軍兵士が日本軍兵士よりも情にもろいと感じている。中国兵およびインド兵を、彼女らは恐れていた。」
吉見義明編「従軍慰安婦資料集」1992年11月27日発行 大月書店
439頁~
日本人捕虜尋問報告 第49号 1944年10月1日
尋問場所 レド捕虜収容所
尋問期間 1944年8月20日~9月10日
報告者 アレックス・ヨリチ
政府調査資料 1997年7月10日 118~136頁(PDF通し頁)
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf
史実を世界に発信する会
http://hassin.org/01/category/literature/comfortwomen/page/2
米国陸軍インド・ビルマ戦域所属情報部心理作戦チーム情報室(OWI)日本軍捕虜尋問報告第49号
http://hassin.org/01/wp-content/uploads/No49.pdf
同上原文
http://www.sdh-fact.com/CL02_4/8_S1.pdf
上記のビルマの作戦に参加した米軍将校のロイ氏が出版した書物の写真から、慰安婦達がふくよかで表情が暗くないことが分かります。戦闘中の極限的な飢餓状態や暴力支配に置かれていなかったと見えます。その意味で、日本軍と連合軍からも守られていたと考えられます。
チャン・ウォン・ロイ "Burma: The Untold Story" の解説と掲載写真
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080514/p1
http://ianhu.g.hatena.ne.jp/Stiffmuscle/20080515/p1
「日本軍捕虜尋問報告第49号」の調査に関わったとされるOWIのカール・ヨネダとチャン・ウォン・ロイの「BURMA : Untold Story」の調査記録
「慰安婦問題とアジア女性基金」
(「慰安婦」問題調査報告・1999 左から5つめのPDF)
雲南・ビルマ最前線における慰安婦達-死者は語る
浅野豊美(注1)
http://awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf
この浅野先生のミチナ(ミイトキーナ)捕虜尋問報告分析は、背景も含め詳細な内容です。浅野先生は、カール・ヨネダとチャン・ウォン・ロイの捕虜収容所での見聞がずれていることを指摘し、報告書の矛盾を突いています。
最初の鉄条網越しの写真、手前のヘルメットをかぶっているのがヨネダ、右端の膝まで露出した女性がKim、彼女は、慰安婦ではなく宮本キクエという看護婦、ヨネダとキムの間の中央の男は、日本軍兵士(捕虜)と推測している。8月3日キムと日本軍兵士を捕らえ、ヨネダが彼女を飛行機に乗せて基地に帰ったのが8月5日。従って、8月10日捕虜の20名にはキムは含まれていない。
戦後、GHQが朝鮮人の帰還事業を推進したにもかかわらず、李承晩の反共政策で、朝鮮人が朝鮮半島より暮らしやすい日本に戻ってきます。さらに1950年には朝鮮戦争が起こり、ますます住みにくくなります。このころ日本に密航した方々が在日朝鮮人です。金さんは、1947年に帰国したとしても、当時の朝鮮半島は混乱と経済疲弊で女性がまともに生活できる状況ではなかったと思われます。女性が生き残れる売春業に従事したことが想像できます。金さんは朝鮮戦争で進駐してきた米軍を主力とする国連軍を相手に営業した可能性があります。日本の慰安婦(売春婦)も同じ道をたどっていることが報告されています。
金さんの証言に「朝鮮戦争の時」、他の慰安婦から「ジープ」「クリスマス」の言葉が漏れるのは、国連軍(米軍)を相手にしたことを物語っています。
「ジープ」東アジア黙示録さんブログ
http://dogma.at.webry.info/201407/article_1.html
「ジープ」台湾 鄭陳桃さん
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201307070001.aspx
「クリスマス」黄錦周さん1995.7.25
以上の資料から、日本軍を相手にした慰安婦は、売春業を継続し、国連軍(米軍)の兵士も相手にした可能性が高く、韓国政府は「米軍慰安婦」の隠蔽のため「日本軍」の慰安婦問題を強調していると思わざるを得ません。従って、金さんは、シナリオライターに指導され1945年以降の具体的な行動を隠さざるを得ないのだと思われます。
金さんは、1940年から1960年過ぎまで20年以上売春婦の営業をしたか、あるいは、1945年以降売春婦になったか、いくつかの可能性が考えられます。要するに米軍慰安婦だったことを隠したいのではないかと思われます。彼女の証言に生活臭(具体性)が感じられません。
(注1)
米国で「慰安婦問題」を広めている活動家のエミコヤマ氏が主導した「2015年5月5日 187名の日本歴史研究者の声明」を翻訳する作業を行ったのが早稲田大学政治経済学術院の浅野豊美教授
朝日新聞、声明文と187名の名簿
http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html?iref=comtop_list_int_n02
エミコヤマ氏本人の声明(東洋経済の福田記者の曲解記事の訂正)
http://synodos.jp/international/13990
ここでリンクされている東洋経済の記事に浅野豊美教授の紹介がある。