村上春樹について 3 | 公式ブログ - 作家のひとりごと -

公式ブログ - 作家のひとりごと -

STUDIO VERKの作曲家が綴る随筆的ブログ

こんにちは。

森元です。

 

前回はリアリズムの話をして、結果村上春樹の話から遠ざかってしまい、何がなにやらわからなくなってしまいましたが、頑張って続きを書きたいと思います。

 

まず、前回のリアリズムですが、もちろん村上春樹にも確かにこれは存在しています。

ただ、村上春樹の場合かなりの文字数で様々な情景を描写しておいて(前回の言い方で言うと、リアルワールドを読者の眼前に出現させておいて)、物語の後半で精神世界、いわばアンリアルワールド(正確に言うとこれも微妙ですが)に突入してしまうのです。

 

もともと「これはSFでーす!」と言われていればこっちも「こんな感じかぇ」と身構えるのですが、あらゆるリアルワールドを細かく描いておいていきなりアンリアルに持っていかれるので、今までいくつかの小説を読んでいる人で村上春樹を読んだことのない人は「なんじゃいこりゃ」となってしまうのです。

 

なので、村上春樹の読み方としては、この「世界観」に何かを期待してはダメ。

よくわかんないなと思うことは、よくわかんないなと思ったまま棚上げして、読み進める必要があります。

 

そして前回の最後で少し書いた「ストーリー」、これにも期待してはダメです。

ネタバレになりますが、最新作の「騎士団長殺し」、これのストーリーは「離婚しかけている主人公が、色々あったので気持ちが整理されてもう一度妻に一緒に暮らしたいと提案する」という話です。

これも、この「色々あったので」という部分が、現実世界に照らし合わせると全く整合性が取れていないし、「なぜ」色々あったから主人公がそういう思考に至ったのか、なんの説明もない。

 

では村上春樹がどこにリアリズムを注入しているかというと、それはとにもかくにも「人間の精神」です。

これだけは、ストーリーが突飛でも世界観が理解できなくても、圧倒的なリアリズムで描かれています。

このブログの村上春樹について1でも書きましたが、彼の小説に出てくるほとんどの登場人物の精神は頑強な支柱で強固に支えられていてほとんど動くことはありません。

極論、目の前で人が殺されても、いや、自分が殺されてもなんとも思わないような精神の人間がたくさん出てきます。

これは、ある意味で「現実離れしている」のですが、僕はこれを圧倒的な「リアリズム」と見ます(「現実」と「リアル」は音楽や小説を含むあらゆる文化的な営みにおいて、全く違う意味をもっています)。

 

そして特筆すべきは、そこまでのリアリズムをもって描かれている強固な精神を持った登場人物の中で、「主人公だけは変化する」、ここです。

主人公は、そのよくわからないストーリーや、現実と非現実のはざま、ある意味で整然とし過ぎているその他の登場人物に囲まれながら、成長する。

派手なエンターテインメント的な小説と比べればあまりにも微細な変化、前述の「騎士団長殺し」で言うと「主人公が妻に連絡を取り、一緒に暮らそうと告げる気になった」という変化は、この小説の一番のスペクタクルであり、それは他の村上春樹のどの長編小説にも共通しています。

 

そこに、読者は唯一自身を投影しうる可能性を見ます。

要するに、周りの世界観、整然とした精神世界は、その主人公の微細な変化を引き立たせるためのものであって、ゆえにそれらの解釈を棚上げできる読者だけが純粋な投影を行うことができる。

そしてその投影は、その他の小説家の書いた物語での投影よりも、より深度の深い投影となって、読者に深い文学的感動をもたらします。

 

おそらくこれが、村上春樹が世界的に評価される部分かなと思います。

人間の精神世界を深く掘り下げるので、そこには国民性を無視したレベルでの投影が行われる。

 

僕は以前ブログで神戸女学院名誉教授の内田樹さんを相当に批判しましたが、彼が言っていた太宰治と村上春樹の共通項として「読者がその人固有のメッセージを受け取るような小説」を書くことができる、という指摘に関しては100%同意します。

ただ、村上春樹の小説を読むとき、上記の様な「解釈を棚上げする」読書法が必要になるので、なかなか、好き嫌いは別れるのかなと思いますけどね。

 

 

ということで、作曲家のくせに長々と小説のことを書いてしまいました。

次回からは音楽の話を…いや、どうしよう。

 

言い切るのはやめときます。笑