♪やっぱり踊りはやめられぬ…?
夏と言えば、阿波踊りである。
全国で阿波踊り大会や阿波踊りを取り入れたイベントが開催されている。
自分自身が東京・高円寺で開催されている「東京阿波踊り」に参加したことで阿波踊りにハマった人間なので言えた義理も無いのだが、明らかに妙な現象である。
だって、「阿波」踊りですよ、「阿波」踊り!
「阿波」って言ったら徳島以外に無いでしょうが!
眉山山頂から望む徳島市内と吉野川
司馬遼太郎は『街道をゆく 阿波紀行、紀ノ川流域』で、「(阿波踊りは)芸事好きの阿波人の大発明といっていい」と語っている。
そして、同席していた徳島の女性が「いまはこれ(阿波おどり)だけですなあ。よう残して呉れはったものやなあ」と歎じたのを受けて、「「これだけですなあ」というものがあるというのは大きい。他の府県がうらやましがって、西洋風のパレードをやったり、民謡と日本舞踊の街頭進出を試みたりしているが、洗練度がちがう。歴史は、真似られないものなのである」と結んでいる。
この文章が書かれたのは高円寺の阿波踊りも30年を過ぎた1988年。司馬先生が高円寺で阿波踊りをご覧になったことがあるのかどうかは定かでないが、もしご覧になっていたらどんな感想を抱いたか気になるところである。
ところが、困ったことに(?)この「阿波人の大発明」は凄過ぎた。
県外人であっても、一度やってみて病み付きになる人間のいかに多いことか。
全国で阿波踊りが開催されていることについて、「空き地などが減っている市街地では、通りを練り歩く阿波踊りが取り入れやすかったから」という指摘もあるが、これだけでは「みんながハマる」理由は説明できない。
ややこしいので詳細は省く(従って正確性も欠く)が、そもそも徳島の伝統的な盆踊りみたいなものがあり、これに(主に藍商人によってもたらされた)様々な地方の民謡やら何やらの要素が加えられて、昭和初期には概ね現在のような形になったようだ。
比較的最近(400年の歴史から見れば最近である)で言うと、1969(昭和44)年に関東出身の寺内タケシさん(知らない人は今すぐ『エレキの若大将』を観よう!)が作曲したメロディが1973(昭和48)年に阿波踊りに取り入れられ、現在では「よしの川」というメロディとして一般的になっている例がある(※)。
つまり、阿波の人たちは日本の文化の集大成みたいなことをやってのけたのだ。そしておそらく、今でもそのスピリッツは続いているのではないかと思う。
言い換えると、日本人ならどこの地方の人でもハマるものを「大発明」したわけである(実際には、外国の方にもウケている)。
あ、この段落はあくまでも私論です。
もう一つ、阿波踊りの強烈な魅力がある。
「振りが決まっていない」
炭坑節にしても東京音頭にしても、「♪掘って、掘って、また掘って、担いで担いで後戻り…」みたいな振付けがあるが、阿波踊りにはそれが無い。
浮き拍子のリズムに乗って、右足が出る時は右手を出し、左足が出る時は左手を出す。
決まり事はこれだけである。
誰でもこの決まり事さえ守れば「何となく阿波踊り」になってしまう。
「手をあげて足をはこべば阿波踊」
徳島市内・藍場浜公園にある岸風三楼の句碑に刻まれた俳句である。風三楼は徳島の人ではない(岡山出身)が、阿波踊りを説明する時にこの句がしばしば引用されるくらいに阿波踊りの本質を表現したものと言えるだろう。
大正期のものと思われる絵葉書(studio7蔵)
自由奔放に踊っている。
この「振りが決まっていない」とか「誰でも阿波踊りになる」ということについては異論があるはずだ。
しかし、予想される全ての異論に対して私は「おっしゃるとおりです」と答えるだろう。
ただ、「県外人のお前に阿波踊りを語る資格は無い」というご意見については「だって、この文章そのものが“県外人から見た阿波踊りの印象”ですから」と反論…と言うか、逃げる。議論は嫌いだし、負けるし(笑)
司馬遼太郎先生が言うとおり「歴史は、真似られない」。
そして「阿波=徳島」だからこそ阿波踊りだというのは、どうやったって曲げられない事実である。
また、徳島で阿波踊りに関わっている人たちを見ると、「阿波踊りのDNA」みたいなものを感じる。これも絶対に県外人には習得不能なものである。
さらに、連によっては踊り手が一体となって一糸乱れぬ見事な群舞を見せてくれる。一人一人の踊りのレベルアップはもちろん、お互いの気持ちを合わせるために大変な練習を積んでいる。ここに「誰でも踊り込める」わけがない。
また、上記の「手をあげて足をはこべば阿波踊」という句が意味するところについて、私なんぞは「それだけで阿波踊りになっちゃうんだよなあ」と解釈して納得しているのだが、ある徳島の踊り手の方は「とにかく手を高く上げて踊らなアカンという意味や!」とおっしゃっていた。それくらい厳しい世界でもある。
この絵葉書は昭和30年代くらいのものか?(studio7蔵)
衣装を見なければ「あの有名連」の踊りとは思えないくらいに現在の踊りとは異なっている。
気持ちの込め方も違う。
『阿波紀行』から引用したように、「これだけですなあ」と感じている徳島の方も多いのだ。
これは実際に徳島の知人が言っていたことだが、「お盆以外の時期に徳島に来てみてください。な~んも無いですよ」と。
その言葉を受けて阿波踊りの時期を外して何回か徳島を訪れているが、まあ実際には吉野川の対岸から眺める眉山なんて絶景だし、市内からは離れるが大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)とか祖谷(いや)渓とか、素敵な場所は沢山ある。
でも、確かに阿波踊りシーズン以外は「静かな街」ではある。
歴史的にも、地道に一年間仕事に励み、一気に気持ちを爆発させる「場」が阿波踊りだったりするので、お盆の時期に発せられるエネルギーはただ事ではないだろう。
だから、徳島の人たちが、私のような県外人による阿波踊りを見て「あんなもんは、阿波踊りと違う」と感じるのもよくわかる。
それに、(これまた異論があるだろうが)県外で開催されている阿波踊りを見ると、どうも「一糸乱れぬ阿波踊り」の“形式”だけを真似る方向に走っている連が多々ある。
またしても私論だが、この「一糸乱れぬ群舞」というのは、阿波踊りが包括しているおびただしい要素の一つに過ぎない。
踊り方や鳴り物にしても、時代とともに様々に形を変えている…。大正期には鳴り物にバイオリンだのクラリネットが入っていた時期もあった。
そして、同じ連であっても「去年の踊り」と「今年の踊り」が異なっていたりもする。
その、良い意味での何でもアリが阿波踊りの持つ根源的なパワーなのではないかと感じる。
いずれにしても、我々は「阿波人の大発明」の恩恵にあずかっている。
そして我々なりにハマっている。
そのあたりについては、むしろ徳島の方々には誇りに感じてほしいし、(集客云々の話は別にして)余裕の目で見てほしい。
逆に我々県外の人間は、単に阿波踊りの「踊り」や「鳴り物」だけを見るのではなく、それを築いてきた「阿波・徳島」の人や文化や歴史を感じ取るべきであろうと思う。「祖谷のかずら橋」を渡ったことが無いヤツが民謡『祖谷のかずら橋』のメロディーをマトモに奏でられるか? みたいな。
祖谷のかずら橋
と、かく言う私はまだまだ修行が足りないことは自覚している。今後も県外人なりに精進していきたい。
※「よしの川」のメロディについては、阿波踊り情報誌『AwaDama(あわだま/阿波おどり魂)』で私自身が取材に関わった。私は徳島に赴いて当時を知る人にインタビューをし、寺内タケシさんにも直接お話を伺ったばかりか昭和44年に録音された原曲を聴かせていただくことが出来た。さらに徳島在住の編集長も様々な裏付け取材や資料収集をして、その集大成(?)を『AwaDama』2005年8月号で記事にした。
一般的に使われているメロディーは原曲にアレンジが加えられている。
私が所属している連は、せっかくなので(私の一存で)寺内オリジナルに可能な限り近づけたメロディーに変えた。ウチの鳴り物の唯一の「売り」である。
全国で阿波踊り大会や阿波踊りを取り入れたイベントが開催されている。
自分自身が東京・高円寺で開催されている「東京阿波踊り」に参加したことで阿波踊りにハマった人間なので言えた義理も無いのだが、明らかに妙な現象である。
だって、「阿波」踊りですよ、「阿波」踊り!
「阿波」って言ったら徳島以外に無いでしょうが!
眉山山頂から望む徳島市内と吉野川
司馬遼太郎は『街道をゆく 阿波紀行、紀ノ川流域』で、「(阿波踊りは)芸事好きの阿波人の大発明といっていい」と語っている。
そして、同席していた徳島の女性が「いまはこれ(阿波おどり)だけですなあ。よう残して呉れはったものやなあ」と歎じたのを受けて、「「これだけですなあ」というものがあるというのは大きい。他の府県がうらやましがって、西洋風のパレードをやったり、民謡と日本舞踊の街頭進出を試みたりしているが、洗練度がちがう。歴史は、真似られないものなのである」と結んでいる。
この文章が書かれたのは高円寺の阿波踊りも30年を過ぎた1988年。司馬先生が高円寺で阿波踊りをご覧になったことがあるのかどうかは定かでないが、もしご覧になっていたらどんな感想を抱いたか気になるところである。
ところが、困ったことに(?)この「阿波人の大発明」は凄過ぎた。
県外人であっても、一度やってみて病み付きになる人間のいかに多いことか。
全国で阿波踊りが開催されていることについて、「空き地などが減っている市街地では、通りを練り歩く阿波踊りが取り入れやすかったから」という指摘もあるが、これだけでは「みんながハマる」理由は説明できない。
ややこしいので詳細は省く(従って正確性も欠く)が、そもそも徳島の伝統的な盆踊りみたいなものがあり、これに(主に藍商人によってもたらされた)様々な地方の民謡やら何やらの要素が加えられて、昭和初期には概ね現在のような形になったようだ。
比較的最近(400年の歴史から見れば最近である)で言うと、1969(昭和44)年に関東出身の寺内タケシさん(知らない人は今すぐ『エレキの若大将』を観よう!)が作曲したメロディが1973(昭和48)年に阿波踊りに取り入れられ、現在では「よしの川」というメロディとして一般的になっている例がある(※)。
つまり、阿波の人たちは日本の文化の集大成みたいなことをやってのけたのだ。そしておそらく、今でもそのスピリッツは続いているのではないかと思う。
言い換えると、日本人ならどこの地方の人でもハマるものを「大発明」したわけである(実際には、外国の方にもウケている)。
あ、この段落はあくまでも私論です。
もう一つ、阿波踊りの強烈な魅力がある。
「振りが決まっていない」
炭坑節にしても東京音頭にしても、「♪掘って、掘って、また掘って、担いで担いで後戻り…」みたいな振付けがあるが、阿波踊りにはそれが無い。
浮き拍子のリズムに乗って、右足が出る時は右手を出し、左足が出る時は左手を出す。
決まり事はこれだけである。
誰でもこの決まり事さえ守れば「何となく阿波踊り」になってしまう。
「手をあげて足をはこべば阿波踊」
徳島市内・藍場浜公園にある岸風三楼の句碑に刻まれた俳句である。風三楼は徳島の人ではない(岡山出身)が、阿波踊りを説明する時にこの句がしばしば引用されるくらいに阿波踊りの本質を表現したものと言えるだろう。
大正期のものと思われる絵葉書(studio7蔵)
自由奔放に踊っている。
この「振りが決まっていない」とか「誰でも阿波踊りになる」ということについては異論があるはずだ。
しかし、予想される全ての異論に対して私は「おっしゃるとおりです」と答えるだろう。
ただ、「県外人のお前に阿波踊りを語る資格は無い」というご意見については「だって、この文章そのものが“県外人から見た阿波踊りの印象”ですから」と反論…と言うか、逃げる。議論は嫌いだし、負けるし(笑)
司馬遼太郎先生が言うとおり「歴史は、真似られない」。
そして「阿波=徳島」だからこそ阿波踊りだというのは、どうやったって曲げられない事実である。
また、徳島で阿波踊りに関わっている人たちを見ると、「阿波踊りのDNA」みたいなものを感じる。これも絶対に県外人には習得不能なものである。
さらに、連によっては踊り手が一体となって一糸乱れぬ見事な群舞を見せてくれる。一人一人の踊りのレベルアップはもちろん、お互いの気持ちを合わせるために大変な練習を積んでいる。ここに「誰でも踊り込める」わけがない。
また、上記の「手をあげて足をはこべば阿波踊」という句が意味するところについて、私なんぞは「それだけで阿波踊りになっちゃうんだよなあ」と解釈して納得しているのだが、ある徳島の踊り手の方は「とにかく手を高く上げて踊らなアカンという意味や!」とおっしゃっていた。それくらい厳しい世界でもある。
この絵葉書は昭和30年代くらいのものか?(studio7蔵)
衣装を見なければ「あの有名連」の踊りとは思えないくらいに現在の踊りとは異なっている。
気持ちの込め方も違う。
『阿波紀行』から引用したように、「これだけですなあ」と感じている徳島の方も多いのだ。
これは実際に徳島の知人が言っていたことだが、「お盆以外の時期に徳島に来てみてください。な~んも無いですよ」と。
その言葉を受けて阿波踊りの時期を外して何回か徳島を訪れているが、まあ実際には吉野川の対岸から眺める眉山なんて絶景だし、市内からは離れるが大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)とか祖谷(いや)渓とか、素敵な場所は沢山ある。
でも、確かに阿波踊りシーズン以外は「静かな街」ではある。
歴史的にも、地道に一年間仕事に励み、一気に気持ちを爆発させる「場」が阿波踊りだったりするので、お盆の時期に発せられるエネルギーはただ事ではないだろう。
だから、徳島の人たちが、私のような県外人による阿波踊りを見て「あんなもんは、阿波踊りと違う」と感じるのもよくわかる。
それに、(これまた異論があるだろうが)県外で開催されている阿波踊りを見ると、どうも「一糸乱れぬ阿波踊り」の“形式”だけを真似る方向に走っている連が多々ある。
またしても私論だが、この「一糸乱れぬ群舞」というのは、阿波踊りが包括しているおびただしい要素の一つに過ぎない。
踊り方や鳴り物にしても、時代とともに様々に形を変えている…。大正期には鳴り物にバイオリンだのクラリネットが入っていた時期もあった。
そして、同じ連であっても「去年の踊り」と「今年の踊り」が異なっていたりもする。
その、良い意味での何でもアリが阿波踊りの持つ根源的なパワーなのではないかと感じる。
いずれにしても、我々は「阿波人の大発明」の恩恵にあずかっている。
そして我々なりにハマっている。
そのあたりについては、むしろ徳島の方々には誇りに感じてほしいし、(集客云々の話は別にして)余裕の目で見てほしい。
逆に我々県外の人間は、単に阿波踊りの「踊り」や「鳴り物」だけを見るのではなく、それを築いてきた「阿波・徳島」の人や文化や歴史を感じ取るべきであろうと思う。「祖谷のかずら橋」を渡ったことが無いヤツが民謡『祖谷のかずら橋』のメロディーをマトモに奏でられるか? みたいな。
祖谷のかずら橋
と、かく言う私はまだまだ修行が足りないことは自覚している。今後も県外人なりに精進していきたい。
※「よしの川」のメロディについては、阿波踊り情報誌『AwaDama(あわだま/阿波おどり魂)』で私自身が取材に関わった。私は徳島に赴いて当時を知る人にインタビューをし、寺内タケシさんにも直接お話を伺ったばかりか昭和44年に録音された原曲を聴かせていただくことが出来た。さらに徳島在住の編集長も様々な裏付け取材や資料収集をして、その集大成(?)を『AwaDama』2005年8月号で記事にした。
一般的に使われているメロディーは原曲にアレンジが加えられている。
私が所属している連は、せっかくなので(私の一存で)寺内オリジナルに可能な限り近づけたメロディーに変えた。ウチの鳴り物の唯一の「売り」である。